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倶楽部サピオセクシャル日記103:やりたかったことがやれてないのはなぜ?今夜は心の中に潜む「トメ子」さんの正体を探ってみる
東京出張の帰路、新幹線の中でこれを書いている。昨夜はクライアントと「寿司屋→バー」のはしごだったので、二日酔い気味。車両の揺れと同調する頭痛を誤魔化すべく、先週のルームを思い出してみる。
◆外在化してみた「トメ子さん」の存在
今回のルームタイトルはもともと相方、つよぽんの発案である。「やりたいことがやれない」という状況について話し合ってみたい、との要望を受け、タイトルを作ってみた。トメ子さんは自身にブレーキをかける内的ななにかを外在化したものである。
ぼく自身を振り返ってみても、やりたいがやれていないことは山のようにある。暇がない、お金がない、などさまざまな理由を思いつくが、どうもそれがトメ子さんの正体には思えない。
「まったく不可能」というものは少なく、「やろうと思えばやれる」ものが大半だからだ。そのうちの一つに「小説を書く」というのがある。ずっと、書きたいと思いながら書けずにいた。
明確な理由は自分でも不明だったが、つい先日、プロ奢られやーさんのポストを見てハッとさせられた。好きだから結果が怖いのだ。取り組んでみて、駄作になったらひどいダメージを受ける、と思うから取りかかれないのだ。
ぼくのトメ子さんはどうやら厳めしい完璧主義者らしい。この魔女に対して、凍結魔法をかけてくれた人がいた。「うん、悪くない」でいいと思う――これはなかなか強力な魔法らしく、今のところ魔女は活動を停止している。
◆「やれない」は「やりたい」でもあるということ
今回のテーマに対し、「実はみな、やりたいことをやっているのではないか」という知見を寄せてくれた方がいた。立川談志は「現実はみな正解だ」と言ったが、それに似ているかもしれない。
どんな状況であれ、その人の選択が現在を形作っているのであれば、「やりたいことをやっている」と言えそうだ。単に「やりたいことA」と「やりたいことB」がバッティングしているだけ、と考えると、トメ子さんは少し違って見えてくる。
たとえば、やりたいができないことの例として、「丁寧な敬語を使いたいのに、上司からNGを出されてしまう」という話をしてくれた方がいた。フランクな話し方、メールの書き方をしないのは、どこか慇懃無礼に感じられる、と上司は指摘しているようだ。
この状況を「やりたいことバッティング論」に当てはめると、彼自身の中には「丁寧なコミュニケーションをしたい」という欲求と「上司の希望をかなえたい」という欲求があり、真正面からぶつかっている状況、と言える。
ぼく的には、このケースでは第三の道を模索できるのでは、と思う。たとえば、丁寧な敬語はそのままであっても、個人的な情報や語りかけ、ジョークなどを入れることで、親しみを演出できる。上司が希望する「近い関係」をそうやって実現すれば、お互いに不満を抑えて付き合う余地が生まれる。
◆例によってなかなか通じない「NO議論」
倶楽部サピオセクシャルではこれまで何度となく「議論」を巡る話をしてきた。結論から言うと、議論はしないというのがハウスの方針なのだが、どうにもこれが浸透しないので、再度、議論に対するぼくの見解を書いておく。
議論はボクシングに似ている。スポーツとしてのボクシングは2人の人間がグローブを着けてリングに上がればいい、というものではない。ルールがあり、体重制限があり、一定以上のスキルをお互いが持っている、という条件が整って初めてボクシングの試合は成立する。
公正なジャッジが存在すること、双方がルールについて詳しく知っており、遵守しなければペナルティが科される状況、という設定も必須だ。
議論も実はそれに類似する。言語能力や理解力がほぼ同等で、お互いをリスペクトする人同士がルールに則って言葉を交わすことにより初めて成り立つ。そういった前提を省いて議論めいたことをやれば、結局のところ言葉による乱闘が起きる。
暗黙の了解があるはず、といった幻想は機能しない。弊ハウスにおいて何度も経験したので、間違いない。
欧米の議論文化を日本にも、という声をよく聞く。個人的には無理だと思う。議論の場がちゃんと機能しているのを見たことがないからだ。
◆まとめ
「リスクをとりなさい」
ある街頭インタビューで高齢の女性が語っていた言葉だ。若い頃の自分にアドバイスできるなら、そう言いたいという。
ぼくのトメ子さんはリスクを重めに評価する癖があるので、この言葉は深く刺さった。ルームでも話したが、同じく刺さった人はいただろうか? トメ子さんはいない、という人もいた。
なんと多様であることか――毎回、いろいろな意味で感じるが、今回はそれを一際強く思った。