飽きてから
・ぶつ切り謎しっぽ。
・「飽きてから」を観ました。でもこれをお肉屋さんに言ったとしても、コロッケが一つおまけされたりはしない。
会社の内定式の前に観た演劇ぶりの観劇。楽しかった。映画ほど隔絶されてはいないのに、むしろ客席と融合しているのに、没入はできて、わずかともいえるセットで情景が浮かぶ…まれにしか見ないけど、観劇は面白い。
・上記に関連して、ものにもよるんやろうけど演劇って場の空気というか、存在を見てるなぁとぼんやり思った。「ここはこういう場所なんです」「ステージの向こうではテレビがついてるんです」と定義づけられた場が、ある種の圧を持って存在している。大変ありきたりな言い方をすれば、演者(あるいは劇場)と観客が協力関係にある。取り決めの圧が、物理的に有限な劇場に一定の説得力をもたらしているなぁと考える。読み返すと言い方いややなあ
・もちろんそういったシチュエーションだけに絞って「場の空気」と言いたいのではなく(もちろん関連はしているのだけれど)、演技自体も、纏う空気のほうを見ていたなぁと思っている。例えば泣くとして、映像(編集可能な媒体)であれば泣き顔がアップになるだろうけど、演劇の画角は客席の視界から動くことはない。あらゆる感情が身振りや声色、あるいは周りの空気に仮託されているというのは、顔ではない身体としての人間の可能性がひらかれていて、演劇の強みであり難しいところなのだろうなぁとぼんやり思う。
・飽きてからを観たのでちゃんと飽きてからの話をします。
・チョコザップが笑える場面で出てきて、つかみの笑いのネタかなと思ったら、チョコザップが物語の軸として(ロケーションとして)ずっと存在していて、そんなんありなんやと思った。フン…タイムリーな話題を用いて親近感をもたらそうなど……(ヤなブロリー)と思っていたら、余すことなくチョコザップを使い切っていたので、チョコザップに誠実だった。信頼が置ける。
・昔の懐かしい施設が今は駐車場に…みたいなのがチョコザップになっても違和感がないのって、それだけチョコザップの感染力が強く、またそれに慣れているのだということで、いち企業がそこまで偏在しているのはやや怖いかもしれない。
・時間の経過を表すノスタルジーの象徴が駐車場からチョコザップへと移行している。
・ズレた。
・薔薇丸と頬杖の軸のブレなさが、三者(ゆきゆき、青、しっぽ)の物語の揺れにある種の安定をもたらしていた。三者のやり取りに深刻さがちらと見えて「はわわ…」となったあたりでどちらかが登場する。緊張と緩和。
・頬杖の声質、語りの緩急、発想、動き、どれもがなかなかのツボだった。変なステップが止まらなくなっていたときはマジで声出して笑ったし、切実に変なステップをしていてかっこよかった。変な人というよりは(変な人ではあるねんけど)芯から生きている人やなあと思ったし、私はそういう人が好き。
・頬杖も薔薇丸も(別にあとの三者が違うというわけではないが)、タイマンで世界を生きている感じがして良かった。これが好きだからやる、こう思うからこうする。やわなことでは芯からの挫折はしないかもなと勝手に思う。
・しっぽ(演:上坂あゆ美)すごかった。しっぽが初めて壇上へ出てきたときに「上坂さんや!」と思ったけれど、振る舞いや喋り方はやや若干の幼さがあって上坂さんではないと感じたし、でも纏う空気に上坂さん感があり、しかし明確にしっぽだった。村上春樹みたいな言い方でキショい。
演者の、演じるとき以外の振る舞いを認識に織り込んだうえで演技を見るというのはあまり適切ではないのかもしれないが、役が存在に染み込んでいた。僕が知らないというだけで、他の演者さんもそうだったのだろう。
・しっぽが端々で見せた深刻な顔が忘れられない。特にiPadをもらったときの顔(正確には、見えたのは纏う空気)。理由のない贈与に強く戸惑うような、声色と間。てかなんでiPadにしてんろ デジタル派じゃないかもしれへんのに…とか勝手に思っていました。プレゼントに自分の希望を乗せて渡すときって明らかな縛りとしてモノが機能していて、やや暴力的だなと思う。今回の劇中ではその暴力性がiPadに如実に出ていた。高いし。しっぽは買わなさそうだし。欲しくないのに高いって一番気負ってしまうな。そんな動揺が(勝手に)見て取れて、でもそれを決して明示はしない(深堀りしない)ので、深みがあった。
・演劇と短歌の組み合わせ。おもしろい。
ポイントごとに短歌が提示されるが、完全に状況に合致しているわけではない(と思っている)。「ピントのずれた」という表現がされているけど、完全に重ね合わせないことで、演劇と短歌の「ずれ」(想像上の空間的な溝)のなかに、繰り返し味がする。表現を借りるならば、ピントを合わせるとこう、その時は情景にマッチした100%の味わいがして美味しいかもしれないけど、味に満足してそのときだけに終わってしまうかもしれない。
一致しきらない(と私は思っている)ことで、短歌自体の叙情性を味わいながら、ふっと演劇の一幕を思い出すような、やや独立した魅力があるなあと、観終わって振り返る今に思います。
「短歌自体の魅力が演劇に回収され切らない」、これかもしれないです。短歌を目にすることで、演劇のこのシーン、この心情がありありと浮かぶね、というある種の記憶媒体としてのみ機能するのではなくて、短歌自体はそれ自体として魅力を放っていると思う。でも観劇と紐づいていたものとして、演劇を思い出すスイッチとして作動もしうる。明確にではないが、その時の(自分の中の)感覚めいたものや、もんやりとした情景が浮かぶ。言い方が正しいのかはわかりませんが、観劇後に短歌を目にすることができるというのは、なんだか、楽しかった河原から大事な石を持って帰ってきたような感覚ですね。
・鈴木ジェロニモほど「私」という一人称の似合う声色の人はそう居ないだろう。薔薇丸の一人称は間違いなく「私」だった。
・薔薇丸は人生に飽きながらも人生を生きていて、いろいろな手法で楽しもうとしていて、生き続けるのってそういう工夫がどうしてもいるよなと身につまされる思いだった。
・なぜしっぽは実家に帰ったのだろう。なぜ二人のもとに戻ってきたのだろう。ケリをつけに行ったのか、実家に帰るという頬杖に対する説明は方便で、本当は二人から離れるべく放浪していたのか。
・「私はさ、家族にはならないよ」(曖昧な記憶) 一時は一緒にいるが、ずっと一緒にはいない。ある種の明確な拒絶。これを言うためというか、きちんとした本音を伝えるためにしっぽは戻ってきたのだろうか。
・「飽きてから」っていいタイトルやね。飽きてから。物事には飽きざるを得ないので、飽きたあとの対処のほうが肝要。
飽きたものの数って熱中した物の数で、飽きたものが多いのは情熱的に生きている証なのかもしれない。
・「幾度もブリーチを経たきみの毛が水面のように輝いて、ばか」と
「スクラッチ・チャンス 言葉は過去になりそれでも全部言いたくて言う」が好きです。髪を水面に喩えることで生まれる質感の豊かさと、「ばか」の楔の打ち方とやわらかさ、「それでも全部言いたくて言う」というどうしようもなさが好きなのかもしれない。
・ぼんやり考えて、まとまらなくてもとにかく書こうと思ったら、本当にまとまらない感想になってしまった。本当は感想にかこつけてうまいこと自語りを挟めばよかったのかもしれないけど、そんな器用なことはできゃせん。
観に行ってよかったと心から思います。幸あれ。幸に飽きてからも幸あれ。