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”死ぬ”ということ

こんばんは、さぱこんつです。
今日は新生活に向けて、西へ東へと、安い家具を求め回っていたわけなのですが、隔日でなんか書くと言った手前「本日中になんとか一本仕上げなくては…!」といった気持ちで、ずっとなにか書けることを探してました。その甲斐もあってか、なんとなくおもしろそうなテーマがふんわりと浮かんできたので、おもむくままに筆を執ろうと思います。

前に投稿したnoteでも触れましたが、ここでは自分の考えていることを隠すことなく、赤裸々に晒すつもりです。実際、この文と並行して書き進めている長めのnoteは、僕のちょっとした恋愛遍歴を含め、かなーり際どい内容になってます。
こういった自分の恥部を文字に起こしてみると、どうしてもむず痒くなることがあります。恥部というのは恥部ですから(?)それをみんなに晒すというのは、まあ、恥ずかしいわけです。書いてるだけでコレなんだから、公開するときには指が震えちゃってると思います。

それでも、こうやって汚い部分を吐き出すことができているのは、頭の中で死ぬことが常にチラついているからです。
死ぬといっても、現実で体が寿命を迎えたり、あるいは脳が死んで、人格を形成する媒体が失われたりってことではありません。そんなにずっとずっと先のことなんて、僕にはとても実感がわかないのです。
僕の頭にずっと張り付いているのは、ネット上での僕「さぱこんつ」というアカウントにとっての死です。これは別に、垢消しを示唆してるわけじゃないです。そもそも死ぬとはいっても、ずっと先のことだと思います。早くて三年後とか、そのくらいの話です。

とはいえ、現実での僕が死ぬよりも、もっと早いであろうことは確かです。
経験上、ネット上での人格は、生また日から四年とか五年あたりを境に、新陳代謝が落ちてきます。代謝が落ちるってのは、活動的でなくなるとか、インターネットの優先度が下がるとか、なんかそんな感じです。そうなると僕なんかは「ああこの人はもうココでは生きてないんだな、このアカウントはすでに死んでいるんだな」なんて考えるわけです。こうなってしまったらもう、ネット上での出来事が、その人の深いところには届かなくなります。現実からインターネットへ何かが発信されることはあっても、インターネットから現実に何かが反映されることはなくなってしまうわけです。

ずっと先ではあるけれど、ずっとずっと先ではない将来、「さぱこんつ」もおそらくはそうなります。これを読んでいるみなさんも、きっとそうなるんだと思います。「さぱこんつ」として自分を発信することが、まだまだむず痒くあるうちに、色々と話しておきたいです。それが誰かしらの深いところに届いたら、もっとうれしいです。
明日か明後日にまた何かを話します。明日か明後日にそれを聞いてくださったらありがたいです。








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