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ストリップ劇場デビューの頃

私の劇場デビューは1986年。はるか昔である。
 AVが爆発的に流行したため、ピンク映画各配給会社は主演女優をAV女優に指定する、という事件が起き、監督のボイコットが始まった。当然私も仕事がなくなったわけだ。
 そんな時知人から、ストリップ劇場でSMショーをしているオサダゼミナールがモデルを探していると聞いた。私は次の仕事を探していた所であったし、SMショーはやってみたいと思っていた。ただ、ストリップ劇場という所には不安があった。何か得体の知れない怖い所、陰気な所というイメージがあった。

 当時、ストリップ劇場がメディアに出ることなどほとんどなかった。浅草ロック座、渋谷道頓堀劇場くらいであろう。なぜなら、まさに「本番マナ板ショー」全盛期であったから。東京都内では「このままでは劇場が潰される」という危機感が出だし、ようやく路線変更をしだしたところであるが、小都市、地方では「本板」の香盤がなければお客が入らない時代である。

 私はともかく話を聞こうと、オサダゼミナールの故長田英吉氏と逢うこととなった。私は今までに出会ったSM界の大御所のようにコワモテの人をイメージしていたが、待ち合わせの喫茶店にそのような人は一向に現れない。1時間近く待って帰ろうとした時、店内アナウンスで呼び出しがあった(昔の喫茶店は電話取次ぎや、待ち合わせの呼び出しサービスがあったのです)。   

 私を呼び出したのは、さっきからすぐ近くに座っていたおじいちゃんであった。「え?」正直、面喰らった。この、人の良さそうな人がSMショーを?いや、相手もそう思っていたそうだ。若いねぇちゃんがいるな。まさかな。どうせスレッカラシが来るだろうと思っていたようだ(それまでにコンビを組んだ女性たちは皆、訳ありであったそうだ)。そんなトンチンカンな出逢いが功を奏し、この人とならやっていけそうだと思った。

 そしてステージを観に行くこととなった。埼玉県栗橋にある栗橋大一劇場。古い劇場だがステージはそれなりに広く、楽屋も清潔だった。1回目のステージを観、私は何故か感動した。エンディングに向けての曲はキング・クリムゾン「レッド」の中からの「Starless」。壮大な盛り上げ感のあるプログレ曲のせいもあるが、縛りの早さ、縄さばき。「あのおじいちゃんが!」とびっくりする身のこなし。私は早くもステージに立って縛られたい、と感じたのだった。早速2回目のステージで試してみる。持ち時間は40分。緊張感はまったくなかった。それどころか人に見られながら縛られるなんて幸せな事だと、期待感で一杯だった。そしてステージ後半、前回と同じ所で感動して泣いていた。曲とラストへ向けての演出、縛りの展開が見事に一致しているのだ。
 お腹を下に向けての水平吊りになり、その背中に男が乗り、前後にゆらす。降りて鞭。そこから逆さ吊りに展開し、くるくる回しがら逆さのまま体の縄を解いていく。ラストスパートで、逆さから降り、二人抱き合い、抱えられて下がっていく。1回のステージで私はすっかり魅了されてしまった。楽屋に戻り、すぐさま初舞台は2ヶ月後と決まった。長田氏は「大丈夫、私に任せておけば悪いようにはしないから」と心強い言葉をもらい、デビューを決意したのだ(ちなみにラストのオープンショー、SMチームはしなくてよかった。そこまでの体力が残っていないからという理由で)。

 オサダゼミナールはフリーで回っていたのと、渋谷道頓堀劇場でコースをもらっていたようだが「萩貫(ハギカン)チェーン」へ引き抜かれた。
 当時ハギカンチェーンは、「新宿モダンアート」、埼玉「ショーアップ大宮劇場」「栗橋大一劇場」「ワラビミニ劇場」、千葉「船橋若松劇場」、茨城「明野大一劇場」、群馬「太田大一劇場」を持っていた(数年後に「鶴見新世界」が加わる)。そこへ私が入った。新宿以外は本番小屋だった。抱えている踊り子さんは大御所の本板のねぇさん達が多かったので、顔出し取材ができる私が入ったことで事務所の会長は大いに喜んでくれ「にっかつ女優早乙女宏美&オサダゼミナール」と看板ショーにしてくれた。

 デビューは「川崎東洋劇場」。思い出としてはステージより楽屋内。大部屋の中にワンサカと人、人、人、、。外人さんもいる。正直私は人が苦手である。初日の慌ただしく、殺気立った雰囲気の中、気後れしてモジモジしている私。長田氏は早速「今日が初舞台のこの子。ねえさん達、よろしくお願いします」と挨拶をしていた。顔見知りのねぇさんは「まぁセンセ、そんな若い子連れていいわねぇ。(私に)頑張ってね。10日間よろしくね」
 せっかく挨拶してくれた先輩踊り子だが、私はなんとも言えない雰囲気、緊張感を今でも覚えている。引きつって愛想笑いをしている私。
 「10日間もこのおねえさん達と一緒なのか。うまく振る舞えるかな」
そんなおもいでいるから、過剰意識で何から何まで見られている気がしてならない。

 それでも演目が特殊の「SM」ということもあり、どうせ変わっている人でしょ、という目もあって、新人踊り子でも放って置かれ、自由な時間を過ごしていた。楽屋内で読書や原稿書きをし、周りとはあまり話をしなくてもすんだ。長田氏とはSM談義が弾み、私ののめり込みがどんどん激しくなって行くのであった。

新宿モダンアートにてオサダゼミナール


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