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私が影響を受けたもの3 「寺、仏像」

 関東(特に東京)の1970年代、公立中学校のほぼ全ての修学旅行は「京都、奈良」であった。目的はもちろん歴史ある京都、奈良を目で見て、体感することであったろうと思う。
 でもぶっちゃけ14、5歳の生徒が、歴史的建造物に面白味を感じることは、少ないであろう。大半は、見学などどうでもよく、友達と1、2泊できることの楽しみの方が大きかったと思う。

 私も社会、歴史が苦手、嫌いであった。学校で示されたコースに全く面白味を感じていなかった。ただ初めて行く地なので、興味があるといった程度。

 その意識が変わったのは、嵯峨「化野念仏寺」に入った時であった。
竹林を越え、境内に入る。無数の小さな仏像がワッと視界に広がる。その瞬間に鳥肌が立った。「この空間は何!!」いや、そんなことも思わなかったかも知れない。とにかく衝撃的であった。何かが降りてきたように立ち尽くしていたことを覚えている。
 小さな班ごとに行動していたので、皆足早に通過していく。そんな中で私は「この地にもう一度来る」と心の中で呟き、後ろ髪を引かれつつ、通過していった。
  何でここに惹かれるのだろう。訳がわからない。何十年も経過し、顔もはっきりわからないような、小さな仏像たちが何かを呟いているように思えた。元々ぬいぐるみや人形を擬人化して遊ぶのが得意であったから、そう感じたのか、どうか、、、、。

化野念仏寺

 そしてもう一つ京都の寺で有名どころの「三十三間堂」である。ここも本堂に入った瞬間、鳥肌が立った。何かが違う。そして千体を超える千手観音像。圧巻。ここでも私は立ち尽くした。そして泣きたくなった。何かの感情が湧き出るかのように身体の芯から込み上げてくるのを感じた。「化野念仏寺」とは違う感情だ。でも自分一人見入っている訳にもいかず、皆と同様に足早に進んだ。ここにも必ず再び訪れよう。そう心に誓い。

三十三間堂

 それからの私は、お寺、仏像に興味を持つようになった。ウチは信仰している宗教はなかったので、宗教自体に興味があるわけではない。なので、「このお寺は何宗だから」とかそういった知識は全くもって無かった。ただ目についた神社やお寺に入り、何となく落ち着いた雰囲気に浸るのが好きであったし、お香の香りが漂う空間も好きになった。
 そして仏像も、立派なものでなくとも惹かれるものがあると発見した。本堂にある御本尊は立派であるが、外に設置されている仏像は、皆んなに拝まれて顔や姿が崩壊している物もある。だけどその佇まいに何かを感じる。
「何か」はわからなくてもいい。答えはないけど、そこに行く、見る意味がある、と。

 京都の「化野念仏寺」や「三十三間堂」に再び訪れたのは、中学生から10年は経っていただろう。それでも私の気持ちは変わっていなかった。「化野念仏寺」の小さな仏像たちは「戻ってきたね。いつでもここに居るから」と安心感を与えてくれたし、「三十三間堂」の千手観音は「しっかり見ているから頑張りなさい」と叱咤激励をしてくれているようであった。

 そしてもう一つ白状しよう。私はお寺の空間や、仏像たちにエロスを感じてしまう。仏像の眼は半眼であるが、「見ていなくとも見えている」「見透かされている」と思えて、心がドキドキする。つまり私の「主」のような感覚になってしまうのだ。完全に妄想の世界。
 本堂もお香は阿片のような感覚になり、「この禁断の空間でイケナイ事をするなんて」といったわりと王道な妄想をしてしまう。
(信仰なさっている方、この罰当たりな発言申し訳ありません。あくまでも私個人のイケナイ妄想です)
 私がインドで仏頭を買ってきたのも、そういう物が家の中に欲しかったからだ(それを見て毎日欲情しているわけではないが)。

インドで買った石の仏頭。15キロを手持ちで持ち帰った

 今書きながら思ったが、「O嬢の物語」をここでも引きずっているような気がする。つまり、仏像は私にとって「ステファン卿」、O嬢の主のような存在なのではないか、と(話が飛躍してすみません)。
 仏像を見る事で私の心が落ち着き、仏像から何か使命を伝えられているような気がしてくる。「ご主人様承知いたしました。貴方様の言う通りにいたします」こういったエロスだ。
 私は架空の支配者を探しているのだろう。それが仏像であった。

 本来の仏像の見方、意図とは全く違う想いで、仏像を見ていることに申し訳ないと思うが、これが私の本心である。


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