思い出のストリップ劇場3 埼玉県「ショーアップ大宮劇場」
JR大宮駅周辺は江戸時代に宿場町であったことから、古くからいろんな地区からの人々が集まり、様々な文化が息づいてきた。
大宮駅東口から徒歩10分弱のところに「ショーアップ大宮劇場」はあった。住所は大宮市宮町1ー105(現在はさいたま市)。初めて乗ったのは1987年。それからのべ18年間、2005年まで飛び飛びではあるが、この劇場に、大宮駅周辺に通っていた。なので本当に思い出深い小屋である。
1970年(昭和45年)大宮美人座としてストリップ劇場がスタート。ちなみに2階は「オークラ劇場」というピンク映画館であったので、元は映画館であったろう。その後「大宮DX劇場」となり「SHOW-UP大宮」となる。
昭和天皇が崩御された1989年1月頭。オサダゼミナールとして乗っていた。この週は自粛ムードが流れていて、ストリップ業界では営業するか、休みにするか、各劇場で話し合っていた。そしてその日1月7日。ショーアップ劇場では当日は休みとなったが、翌日から営業した。ただしハードな演目はせずに。楽屋内では「営業して大丈夫なの?手入れ(捕まること)ない?」など不穏な空気も流れていたが、「大丈夫だよ。警察もそれどころではないよ」など、何の根拠だかわからぬ問答が行われていた。
首都圏から近い地方は「通い」の踊り子さんがほとんど。なので食事手当はない。毎日の交通費もない。泊まりの人はシーツ代(1500円位)だけ引かれる。交通費は「乗り金」と言って地方の場合、片道分だけ出ることがあるが、大宮では出ない(遠方から来る踊り子さんには出る。当時は)。
東口駅周辺には当時「高島屋」「SEBU」「長崎屋」など大手や中小の商店が密集しており、休憩時間はいつも出歩いていた。気分転換には最適である。ウィンドショッピングで服屋、本屋、靴屋などみて回った。「食」に関しても何でもあったが、劇場御用達は、近くにあった24時間営業の喫茶店「伯爵邸」である。お客様と会うとき、打ち合わせ、取材等いつでもここであった。店内は広く、昔ながらの味で、何でも美味しい。喫茶店と言えどもご飯ものが充実してい、ボリュームもあった。なのでいつでも混んでいた。24時間営業の独特の雰囲気が日中でもあり、いろんな業界の方々が来ていた。
もう一つ、劇場の斜め向かい位に小料理店があった。店名を忘れたが、ここは劇場の会長が来ると、必ず呼び出された店だ。踊り子は仕事中でも飲酒OKだった。「会長、もう少しで出番なので」と顔を出すと「ま、ビール1杯位大丈夫だろう。飲んで行け」と座らされる(私がビール好きなのを知っているからだが)。初めてここで「ナマコ」を食べたことを覚えている。
さてショーアップ大宮劇場は広い。客席は70席位。本舞台がしっかりあり、タッパも4メートル程。花道、ぼん、と本格的なステージである。
私が通う中で幾度か社長も変わったが、この人が就任してから劇場の流れが変わった、という劇的な人がいた。その名を上山秀男氏。当時60代位であったか。確か1992年から就任したと思う。上山氏はストリップ業界初の「SM大会」を初めて興行したのだった。
1992年のお盆興行。つまり8月11日〜20日。社長の独断で強行興行された。周囲からは反対されていた。
上山「私自身が好き、ということもあってSMが見たい、と思ったのですが、ギャラが高いし、ストリップの中では一部のファンたちだけなので、関係者に反対されていました。でも誰もやってないことですから、私は赤字覚悟で決めました。新聞「内外タイムス」には一番大きい枠で広告を打ち、7香盤を5香盤に変更しました。初回の香盤は、ホタル、浅野ミキ、森尾歩衣、早乙女宏美、ルシアンローズ、というメンバーです。これが当たりましたね。大入りが3回ありました(注・大入り目安は1日100人入場)。ここからSM大会も入るんだ、ということになり各劇場もやりだしたわけです。だけどウチが始めたわけですからね、他がやりだしても余計にウチが入るわけです」
(インタビュー1996年頃)
「SMマニア」であると自ら公言している上山社長。この人柄にもお客様は付いてきた。若い頃には東映撮影所の大部屋にいたこともあるそうで、扮装してステージに立ち、お客様に語りかけ、反応を伺う。全く新しいタイプの社長であった。
1993年はSM大会ブームであった。その中でこの劇場は「大会」もやったが、ノーマル香盤の中にも自縛を入れる、という混合も取り入れ、いろんなお客様を取り込む様式を編み出していた。そして大入りを続けていた。
上山「ヘンタイ社長でいいんです。SM嫌いな人?悔しかったらやって見なさい、SMのこと本当にわかっているのかって聞いちゃいますよ。でもね、やっぱりSM一辺倒ではダメですね。多種多様、絢爛豪華、なんでもいろんなものがなくてはね」
アイディア豊富な人だった。広いロビーに「大人のおもちゃ」の展示をしたり、ファン感謝デーとして、現金つかみ取りやいろんな商品を並べビンゴ大会をしたり、チラシまきも10万枚を近県まで自らが撒きに行ったりと、勢力的に活動していた。
上山氏はストリップ業界の人ではなかった。風俗業界の店長、社長、サオ師(ソープランドでの講師)をやっていた。この大宮劇場が瀕死状態だったためテコ入れとして、迎えられたのだったが、周囲の風当たりは強かったようだ。
上山「どうせシロウトじゃダメだ、みたいに見られていました。だからこそ再建に意地がありました。それで自分の考えを徹底したのです。まず、劇場を綺麗にするところからです。トイレが臭い、汚い。場内の掃除、これを私自身が徹底してやりましたね。それから場内での禁煙。お客さまのマナー改善、基本的なことから変えていきました」
ショーアップ大宮劇場は、上山社長の努力で客足を伸ばしてい、アイドル路線からアングラ的な演目まで様々な踊り子さんも乗り、お客さんもつくようになった。
私は舞台袖が両側にあること、タッパが高いことをいいことに、いろんな大道具を持ち込んだ。「八百屋お七」の演目時には、2メートル近い「火の見櫓」を持ち込んだ。そのため片側の袖が使えなくなった。そのことに先輩の踊り子さんから「こんなの冗談じゃないわよ。ま、早乙女さんだから許すけど、勘弁してよね」。ピンク映画での先輩でもあったので、その程度で済んだが、確かに常識外れだったかと反省した。
また、必ず家に帰る私だったが、楽屋が割と居心地がよく、泊まり始めたのもこの劇場からだ。踊り子さんとの楽屋飲みが楽しくなった。SM大会では、舞台演出について話し合える友も増え、連日泊まり、なんていうこともあった。
それが少しずつ変化しだしたのは1995年頃からだ。バブルが弾けた影響が今頃やって来たり、風営法の度重なる改正で「SMは個人的な性癖」だから取り締まりが緩かったのが、変わりだした。コース切りは私に「あんまりハードなSMはしないでくれ」と言って来た。私のどこがハードだかわからないが、必然的にSM大会はなくなり、私も大宮に乗ることがほとんどなくなった(私はダッチワイフを使ってお客様と交流したり、ソフトSM講座みたいな演目をしていた)。
そこをまた変えたのが、あのジョウジ川上氏であった。上山社長はやめていた。いつやめたのか定かではないが、捕まってやめたわけではないので、まだ良かったと思う。
2003年。ジョウジ川上氏は今までとは全く異なったSM大会を提げて大宮劇場に現れた。川上氏の相棒は、M男さんの超有名人(業界内で)G氏。G氏は年配ながら若々しく、行動力があり、社交的。いつもニコニコと笑顔で、全国津々浦々、癖の為に飛び回っていた。
このG氏とタッグを組み、全国の風俗店「SMクラブ」女王様を次々と引っ張って来て舞台に立たせた。つまり通常の踊り子ばかりの香盤とは全く違った。
(詳細はマガジン「ストリップの思い出」の「ストリップ劇場元社長ジョウジ川上氏の映像作品上映会」にて)
これがまた大当たり。
お店のお客様は遠方からでも来る。女王様たちも「ステージに立つ」という別世界に夢中になる。相乗効果で再び劇場が沸き立った。しかしこの企画には通常のストリップファンは来ない。入場料が通常の倍近く跳ね上がるし、タンバリンやリボンを投げる応援もいらないから。
その変わり、川上氏はSMに、変態に特化した。「レズビアン大会」「ホモ大会」「スカトロ大会」なんでもござれであった。
しかし2004年末に経営者が変更し、その後2005年8月20日を持って大宮劇場は閉館した。おそらく警察との関係であろう。「出る杭は打たれる」のがストリップ劇場だ。
私はこの劇場が好きだった。ステージも楽屋も含め。また、周辺の商店街も牧歌的でよかった。こう書いているといろんな踊り子さんの顔が浮かんで来る。レズの先輩踊り子さんと一夜を過ごしたこともあったなぁ。
本当に懐かしい想い出溢れる劇場だった。