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緊縛モデル ビニ本編

エロ本にはヌードモデル。SM雑誌には緊縛(される)モデルがいる。

私が緊縛モデルとなったのは1983年のこと。

ヌードモデルからスタートしたが、そこからランクが落ちて緊縛になったのではない。当時はモデル仲間が嫌がっていた「SMモノ」のモデルに自ら進んで、手を上げたのだった。当時ヌードモデル事務所など1、2社程しかなく、ほとんどがフリーランスで、仲間同士で仕事を回しあっていた。

私がMモデルに志願したのは、自分が「M性が強い」と思い込み、実際にどんな感じなのかと、体験して見たかったから(私のM性の目覚めはおいおい書いていく)。M性が強いと思っていても、当時、女性から性の欲求を口にすることはまだ、普通ではなかった。そこで、趣味と実益ではないが、仕事として積極的に選んでいったのだ。

とは言ってもSMモノはやはり特殊ジャンルなので、仕事のつながりは急にはできなかった。初縛られは、ビニ本だった。

ビニ本→ビニール本。雑誌コードはついておらず、一般書店では売れないヌード写真集。中身が読めないよう透明な袋にパッケージされていたため、ビニール本と呼ばれていた。中身を見せないのは、立ち読み防止だけでなく「騙し」もあった。可愛いモデルの表紙でも中のモデルが違うとか、ハードな内容に見える表紙でも、中は消しが多かったりと、なんでもアリな世界だった。売られていたのは、大人のオモチャ屋、個人経営の書店、古本屋、自販機で、A4サイズ、40ページほどで1冊1500円から2千円であったろうか。

出版社は、自販機本(自販機で売ることを前提として作られたエロ本。サブカルチャー雑誌文化の流れを作ったと言われている)が下火となり、次の資金作として生み出されたため、2流、3流出版社や倒産危機の出版社であった。アリス出版、群雄社、土曜出版、セルフ出版、グリーン企画(セルフとグリーンは白夜書房)が有名どころであり、最盛期には30〜40社あり、制作会社もたくさんあった。私が覚えているところで、コバルトブルー、ロマンブック社、アド企画、アニマート企画、美研、美勝堂、ハロー企画、コンパル出版などがあった。

私が初めた1983年頃はすでに下降線の最中であった。

1978年〜79年頃に急増し、ピークは1980年だったという。出版社であった芳賀書店は、1979年に大人のおもちゃやエロ本を扱う専門店を神田「古書センター」にオープンさせ、ビニ本が爆発的に売れ、ビニ本のメッカとなった。

さてその中身は、自販機本の流れを汲んで、下着をつけた大股開きでも股間は黒くベタ塗りで消されていたが、次第に綿の白下着からうっすら黒い影が見えるか、どうか、、となり、白綿パンの股間生地、二重の部分を切り取り、なんとなく見えるかな、となっていき、通称「スケパン」の登場。ナイロン製のスキャンティ。スケスケパンティだから「スケパン」。これも股間の二重生地を切り取り「下着はつけています」というアピールは残しつつも、股間は、、見えてます。末期にはついに下着ではなく、ベール。衣装などで使われるチュール一枚を股間にかけての大股開き。これはもう完全に見えてます。

ポーズもいくつか「決めポーズ」があった。顔、乳房、股間が見えるポーズ。正面M字開脚、バックで顔を横に向けた四つん這い、など。カメラマンは、「同時にピンを合わせないといけないから大変なんだよ」と言っていた。

そしていよいよ緊縛初体験。

期待は大きく外れた。ビニ本の縛りは実にいいかげんであった。それまでに「縛り」というものを知っていたわけではないが、小柄な私の体に合わない太い綿ロープ。明らかにロープが体に浮いている。ぐるぐる巻きに近い感じの縛り。手もなんとなく拘束されている程度。私が初めて、ということで手加減をしてくれたのかもしれない。良かれと思って優しくしてくれたのかもしれない。何しろSMモデルは貴重だったから。それでも疑問を感じた。心に響くものは全く感じられない。SMってこんなもん?いや、もっと何か違うはずだ。もっと心に響くものがあるはずだ。

ヌードモデルを初めて半年ほどで(その間にビニ本20冊ほどは撮ったであろう)、もっとSMを知りたい、私は何か変わりたい、と思い出していた。これは、ビニ本の仕事だけのせいではない。私は駆け足で仕事をしすぎた。ヌードモデルとしての賞味期限は早くも切れかけていた。

その頃、エロ業界も時代が変わりつつあった。

家庭用ビデオデッキが普及しだし、ビニ本は消え、ビデオ時代となりつつあった。「動くビニ本」「素人生撮りビデオ」。

時代はまた一つ変わりだした。    続く


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