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創作「期待の先を漂う」

田所さんが帰ってきた時、事務所にはもう私しかいなかった。従業員が20人しかいない小さな会社だが、数年かけて上層部が推奨したノー残業の空気が浸透して、19時すぎの事務所には他の社員は誰もいなかった。
月に一度の忙しさに追われていた私でさえ、今日はもう帰ろうとしていたタイミングだった。
「おつかれー、杉本さん、まだいたんだ」
「おつかれさまです!」
私の声を聞くよりも先に、早く帰りなよーと言いながら、彼は自身の机に向かった。
私はもう仕舞いかけた仕事道具を持て余しながら、彼を見ていた。
田所さんが、額を手のひらで擦る。それは彼が焦っている時の癖だとわかるのは、私がいつも視界の中で彼を追っているからかもしれない。
「田所さん、何かありました?」
心の声のつもりだったのに、実際に声に出してしまって自分でも驚く。でも、何故かその方がいい気がした。
「え?なんでわかった?」
田所さんが目線だけをこっちに寄越す。垂れた前髪から切長の目が覗いて、私の心を射抜く。
「いや…なんとなくです」
動揺した私は、ごまかしになっていないごまかしをする。
「帰り途中に、山内企画さんから電話あってさ。今日までに出す企画書、完全に忘れてて今から作るとこ」
「本当ですか?企画書だと、半日くらいかかりますよね」
一分一秒でも惜しい理由がわかった。私とのほほんと会話している余裕もないことも。そして、私の中に少し打算的な気持ちがむくむくと生まれたのもわかった。
「田所さん、何かお手伝いしましょうか?」
そう言うと、彼の動きが止まった。
「マジか。頼みたい、けど残業させるのも申し訳ない。でも頼みたい。申し訳ない。頼みたい」
壊れたおもちゃみたいに繰り返す田所さんの口を、とりあえず何をしたらいいですか?と言って制した。今度奢ってくれたらいいですよ、と少し強気な言葉も加えて。気がついたら私は、髪を束ねながら田所さんの机の隣に座った。
企画書に使う素材を用意し、過去のデータを集める。他の部署に聞く必要のあることを問い合わせし、担当者がいないとわかり、過去の商品実例から数字を探した。気がつくと、終電の時間は過ぎていた。それは私も十分わかっていたし、あんなに申し訳ないと言っていた田所さんも気がつかないふりをしていたのだろう。
危機を乗り越えるための相棒として、私のことを見てくれていることが嬉しかった。

「マジで、本当に助かった。ありがとうー!」
企画書を先方にメールを送ったのが深夜一時だった。事務所の戸締りをして帰路に着く。
駅までの帰り道に、田所さんが自販機で栄養ドリンクを買ってくれた。
「仕事終わりにこれですか?!もう今日はこれ以上働きたくないです」
そう軽口を叩いて、歩きながら私たちは乾杯をした。
「本当、終電まで逃させてごめん。でもって、タクシー代も出せない自分でごめん」
慌てふためいて柔らかさを失っていた田所さんが、いつもの調子に戻っていた。
「これから朝までどうしましょうかね?カラオケとか行きます?」
もらったドリンクを飲みながら私は尋ねた。
「まぁそれもいいけど疲れたでしょ?もしよかったら、俺の気に入っているところがあるんだけど、行かない?」
解散になるのはつまらないと思っていた私は、田所さんの誘いに二つ返事でついていった。
10分ほど歩いて駅の反対側に着いた。JRと地下鉄が交差するこの最寄駅は、この時間でも飲み屋が点在していて、人もそれなりにいる。
飲み屋の通りを抜けて、角を曲がった先のビルで田所さんは止まった。
「あのね、ここ」
指さした先には、SPACE HOTELと書いてある。
「ホ、ホテルですか??」
「そうだけど?」
涼しい顔をした田所さんはビルの中に入っていく。なんでそんなに平静でいられるのかがわからない。私はさまざまな想像を一気に駆け巡らせて動揺した。ラッキーと思わないこともないわけではないがそれにしても、会社の最寄駅だし、もうちょっと雰囲気ってもんがあるんじゃ……。まぁもう流れに身を任せよう、えい。そうしてホテルの中に入ると、そこは私が想像したような湿っぽい空間ではなかった。

カウンターにはポロシャツを着た女性スタッフがいて、田所さんは慣れたように受付を進める。あっち系のホテルの入り口とはだいぶ違うさっぱりした雰囲気だった。田所さんが会計を済ませて、レシートのようなものを私に渡してきた。
「ここのカプセルホテル、ちょっと面白いんだよ」

こうして私は今、カプセルの中にいる。ご丁寧に女性専用フロアもあって、田所さんとはエレベーターの中で別れた。
宇宙船のコクピットを模したカプセルの中は、一面が真っ白で、埋め込まれたテレビ画面とその下に並んでついているボタンは操縦席を思わせる。白い壁に反射して、小さいライトでも十分に明るさを感じる。
温度も光も人間が思う快適な数値に保たれていて、機能もアメニティも最小限にして十分なものだった。備え付けの作務衣のようなパジャマに着替え、体をカプセルに委ねた。テント以上ベッド未満のような硬さの床が少し心地いい。
この中にずっといたら昼も夜もわからなくなるんだろうなと思う。

田所さんの一階上のフロアに行った。ホテル内で整列しておかれているカプセルの数々を想像しながら、彼が寝ているのは私の右上なのか、左上なのかと思ってみる。
今日あった色々なことを反芻する。田所さんの仕草、会話、視線。
今日の出来事の最終的な結末が、二人の関係が、私の望むことにならないことはなんとなくわかる。
でも、今日くらいはその予感を忘れていたいのだ。
少なくとも、田所さんは今は少し安心して寝られるのだろう。彼の眠りのためになったのなら、それで構わない。
動力を持たずに、ただ宇宙空間を漂う。そんなカプセルに身を委ねて、私は眠りの中に落ちていった。


<三題噺の練習/90分>
1つ目は『宇宙船のコクピット』
2つ目は『栄養ドリンク』
3つ目は『擦る』

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