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私たちに出来ること

TVの画面には、瓦礫の街や涙を流す人々が映る。
困難な年を迎えてしまった。
人生はいつどうなるか分からない。
昨日まで当たり前にあった日常が、跡形もなく消え去ってしまう。
そんな困難に出逢った時、私たちはどう生きていったらいいのだろう。
そして、私たちに出来ることは、一体何であるのだろう。



私の人生を振り返ってみても、決して良いものではなかった。
高校でのいじめや留年を体験し、精神疾患をわずらった。
20代には、発達障害とも診断される。
大学受験の夢は叶わず、アルバイトを転々としたが、何一つ続かない。
そんな悶々とした日々の中、通っていた教会で受洗をし、クリスチャンとなった。
その日から、私の中で何かが変わっていった。
見上げた空に、いつも主イエス・キリストがいると感じるようになったのだ。



今、年を経て38歳になるが、思いのままにいかない人生で良かったと思える。
その苦しみの中で、主に出逢えるという思ってもいなかった恵みを、天から与えられたから。
主に出逢えたこと。
私の人生で一番嬉しい出来事だった。
ある意味、私たちにとって、困難がチャンスなのかもしれない。
主に出逢える方法は、困難の中にしかないからだ。



では、こんな人生はどうであろうか。
有名大学に入学して、将来安泰な会社で働くこと、結婚をして家庭を持つこと、子供や伴侶に恵まれ、孤独な老後を心配する必要がない、ということ。
これらはどれも、幸せへの一つの過程であって、生きる目的ではない。
けれども、これらのような、何の悩みも苦労もない人生が果たして良いものだろうか。



私はこの年齢になって、困難を与えられている人々は、きっと主イエスに信頼されているからだ、と思えるようになった。
「きっとこの試練を乗り越えられるに違いない」と主が確信してくださるから、私たちは困難を与えられるのだ。
だからこそ、困難はチャンスであり、恵みなのだ。
主が私たちに目を留められている証拠であるのだから。



何の苦労もなく生きられたなら、どんなに幸せであろう。
しかし、私たちには困難の中でしか見出せないもの、出逢えないものがある。
それこそ、主イエス・キリストなのだ。
苦しみの中で、主に想いを馳せ、主の生き様に触れる。
その時、「私たちはどう生きていけばいいいのだろう」の答えが見つかるはずだ。



では、最初の問いかけに戻ろう。
私たちに出来ることは一体何であるのだろう。
それはただ一つ。
主のために生き抜くことだ。
私たちが困難の中にいる時、手を差し伸べてくれた主のために。
そして、その主に発見され、主に推薦される者となることだ。
それが、私たちの人生の目的だ。



困難に出会うたびに、「イエス様だったらどうするだろう」と、考え抜く。
そうやって少しずつ、主の似姿に近付いていく。
私たちの人生は、ただそれしかないのだ。



私たちに出来ること。
それはこの地上の人間に、認められ続けることではない。
主イエスただおひとりに認められ、賞賛されることだ。
それが、私たちはどう生きていったらいいかの答えだ。



主は、自分の似姿に近付こうと願う私たちを放ってはおかない。
必ず、助けの手を差し伸べてくださる。
「友よ。私のために、ありがとう」
主はそう言って、涙を流し、私たちの生き様を喜んで見ていてくれるであろう。



この世は辛くて、苦しいことばかりだ。
でも、主がその困難を担っていてくれるなら、どんなに心強いだろう。



苦しみの中でこそ、主イエス・キリストを見上げたい。
苦しみを喜んで受け取れる、私たちになりたい。
そして、この地上での戦いに勝利し、天の国で主と再会できることを、心待ちしながら、精一杯生きていきたい。



さおり♬


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