イエス様のようなお方はいない
あなたにとって、イエス・キリストはどんな存在か?と問われたらなんと答えるだろう。
困難の中にいるとき、いつもそばにいてくれる方。
代わりに罪を償ってくれる方。
私欲のない方。
親友、と答える人もいるかもしれない。
私にとってイエス様は、自ら自分を捨てることができたお方であったように思う。
世界には自分の得意分野や能力で、のちの世に名を残している人物がたくさんいる。
けれども、イエス様のように、2000年以上経っても、人々の心に残る人物は他にいるのだろうか?
イエス様は私たちに覚えていてもらおうとして、十字架にかかったのではない。
忘れられて当然、という覚悟と思いの先に、私たちへの愛だけがあったのではないか。
「決して、私を忘れるな」とは言わなかった。
むしろ、「私のことなど忘れてもいい」と思っていたのではないか。
では、イエス様が私たちに望んでいたこととは何だったのだろうか?
それは、「私がかかった十字架に対して、あなた方はどういう態度を示して生きていくのか?」というイエス様の問いに答えていくことではないだろうか?
イエス様は、常に私たちを心配し、憐れみの眼差しを向けてくださる。
その証が、十字架ではなかったか。
イエス様ほどのお方は、この世に一人もいない。
みな自分を捨てることはできない。
みな自分に執着しすぎている。
みな自分のことを考えすぎている。
だから、私たちはみな罪人なのだ。
イエス様だけが正しく、真実なお方なのだ。
自分の思い、「我」を捨てた方であった。
自分を捨てることができたからこそ、この世界で語り継がれているのではないか?
これからも、たくさんの偉人が現れるだろう。
けれども、イエス様を超えるような人物はいないはずだ。
自分を捨てることができないのだから。
だからこそ、そんな私たちを心から心配し、憐んで、イエス様は十字架にかかった。
さぁ私たちは、イエス様の十字架にどう応答していこうか。
自分を捨てることができない私たちにできることとは、なんであろうか。
「いつも自分のことでいっぱいで、不器用な私だけど、今日もイエス様のために生きてみるよ!」
そうやって応えるとき、イエス様は自分のことを思い出してくれた私たちのために、いつまでも祈り続けてくださるにちがいない。
さおり♬