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【老い】娘世代から見る吉田拓郎さんの引退【落陽】
ムッシュかまやつさんの死と吉田拓郎さんの引退は、名前の由来が「シンシア」から来ている私にとって、親戚のおじさんを失ってしまうくらい悲しく感じられた。
父は吉田拓郎さんのファンで、彼が南沙織さんを想い歌った「シンシア」から私の名前をつけた。
生まれて初めて父にギターで教えられ、歌った曲は「夏休み」だ。
むぎわらぼうしは もうきえた
たんぼのかえるも もうきえた
それでも まってる なつやすみ
私はしばらくこの曲を子どものもための童謡だと思っていた。それくらい、この曲は3歳の私の気持ちによりそってくれた。
父はビートルズや井上陽水、泉谷しげるなど他の曲も歌って聞かせてくれてたけど、それらは、幼少期の私にとっては、まだ見ぬ大人の世界の曲だった。ビートルズは父の英語もテキトーだったし、井上陽水さんの曲は一見シンプルで子どもにもわかりやすいようで、ブランデーを染み込ませた甘いケーキのように大人の世界を垣間見せた。
泉谷しげるさんの曲も聴きやすい軽快さながらやさぐれ具合がごく平凡な子どもには理解しづらく、少し滑稽にさえ感じられた。
成長するにつれ、私はそれらの曲の意味を知り、理解するようになったけど、それまでしばらくは、大人のひとたちの、もっと言えば父の、団塊の世代のちょっと特別な若者の世界の音楽だった。
そんななかで吉田拓郎さんコードと歌詞だけが、なぜかその歌い描く風景は、子どもの私も同じ目線で見て感じ取ることができた。
父は庭での花火の最後に線香花火を取り出し、ライターで火をつけながら拓郎さんの「線香花火」を歌った。
夏の終わりと、目の前で力尽きたトンボの姿に、
ないでもないのに なきました
という拓郎さんの繊細さと、父の巨大な体に似合わぬ優しさは共鳴してるようで、私も悲しいような、それでいて、音楽が身体に染み込む幸せを感じたように思う。
拓郎さんの歌は、団塊の世代の、フォーク世代の音楽なのかもしれない。
それでいて同時にそれ以上に、彼の風景は私が見た風景と合致した。私のための音楽にもなった。
そういうことができるのってもう、俳句や名画やクラシックなどの芸術に近い世界になると思う。
ジャンルや世代を越えても残るシンプルな人生の悲しみや切なさと向かい合ってるからこそ、描き出せるものがあるのだらう。
先日音楽番組で、吉田拓郎さんを慕う堂本剛くんが拓郎さんと最後に歌いたい曲に「落陽」を上げ、共に演奏した。
彼がどうしても気になる曲だという。私も他の曲たちの中でこの曲だけが夜、寝付く時に印象的なコードが鳴り響いていた。
悲しさと、優しさと、哀れみと、温かさに溢れた曲だ。
吉田拓郎さんという大きな陽が、真っ赤にゆっくり沈んでいくのを皆で見送るようで、胸と目頭がジワっと熱くなった。
この歌では若者が、老人に見送られる。賭博にあけくれ老いていく彼を、若者は忌みもせず、心を通わせる。老人もまるで少女のように若者との別れを惜しむ。
そこに、老いに対する優しさがある。
なんとなくだけれど、この時代の若者というか、常に上にアンチテーゼを唱える若者全般の歌には珍しいのかもしれない。
だからこそ、吉田拓郎さんは、老いに対するやさしい眼差しがあったからこそ、不器用ながらも自身は誠実に歳を重ね、かつて自分がそうだったような若者たちに慕われながら、音楽人生に幕を引けるのかもしれない。
それは本当に豊かなことだ。
吉田拓郎さんには「ビートルズが教えてくれた」という曲もあって、父もよく歌ってくれたけれど、ポール・マッカートニーも、まだ若い20代のころに「64歳になっても When I'm Sixty-four」を歌っていた。コミカルながらも老いに対する優しさと人生の幸せに満ちている曲だ。そんな彼の現在は引退の様子もみせず、64歳どころか80歳を迎えた今も現役でライブ続け、若い人たちを沸かせている。
そういえばビートルズファンの森高千里さんもまだピッチピチのバブリーな若い頃に「私がオバサンになったら」を歌い、30年経った今なお当時と変わらない驚異的な美しさと可愛らしさでファンを幸せにしていらっしゃる。父もファンだ。
若いときの、老いとの向き合い方は、そのひとのそれ以降の歳の重ねかたと繋がっているのだろう。
老いや、死、人生、そこから逃げずに向き合い、音楽として表現する人、それができるひとは、ホンモノなのだ。
吉田拓郎さんは、確実に私にとってホンモノのひとだった。