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レイシストとは誰のことか

いても立ってもいられなくなって、この文章を書き始めました。英国リヴァプールのペニーレイン通りのプレートが黒く塗られ、その上にレイシスト、差別主義者と書かれていたのです。その通りはビートルズファンとっては聖地であり名曲「ペニーレイン」の舞台です。
なぜそんな場所に落書きがあったか、ペニーレインの名前の由来が、奴隷貿易商のジェイムズ・ペニーからだ、と。しかしこれは誤報で、実際はこの通りを渡るのにお金を払わなければならなかったから、お金の単位のペニーの通り、ペニーレインと言うことをリヴァプール市長が発表していました。

この落書きをされたペニーレインのプレート見たときに、大げさでなく、絶望レベルでの悲しさを覚えました。
私は自分が誹謗中傷されても平気だし、大切な人が危険に晒されたら国家権力でも裏社会でも総動員するほど腹が立つけれど、このビートルズの美しい曲を汚されたような気持になったほどの、悲しいことはこれまでなかったと思います。

この落書きをしたのは誰なのでしょう。差別に苦しむ黒人のかたか、または、差別を煽りたい輩が市民の分裂を狙ってやったのか、、、そういうひとは実際あちこちにいます、が、ここではそれは問わないでおこうと思います。ペニーレインの由来が奴隷商か、通行料かもここは置いておきたいです。

どんな怒りや悲しみであれ、それは人々の心の中に刻まれる美しい曲を汚す理由になるのだろうか?問いたいです。
この落書きをしたひとが、差別を煽りたいひとなら言うまでもなく、もし差別に苦しんでいるかたがいて、実際にこの通りの名前が奴隷商からきているとしても、このプレートを汚すことは許されません。
その行為は、レイシスト、人種差別をする人々と、まったく同じ卑劣な行動だからです。差別をされる被害者のひとが、差別をする加害者側に立つこともありえるのです。

人種だけで差別する、ということは、その人の肌や髪の色、生まれ育った国や、文化圏など、わかりやすい外見からすべてを判断する人のことです。
その人の能力や才能、人格や美徳などは一切、目をくれることはありません。そこに深い洞察や思慮もありません。ただ、表面上のことだけで、短絡的に判断をくだします。

コロナ後の世界で広がっている人種差別に対するデモなどの抗議運動ですが、その流れからか、「風と共に去りぬ」が配信停止になったとのこと。
正直私はこの映画に思い入れはなく、ビビアン・リーが綺麗だなあ、程度であるし、実際にどの描写がどういう観点で差別になるのか、細かいことはわかりません。しかし、それを配信停止するとはどういうことでしょうか。この作品は黒人を差別するために作られたプロパガンダ映画でありません。私はあまりこの主人公には共感しませんが、激動の時代に揺れ動いた女性を描いた作品です。それは多くの人の心象風景として刻まれているものです。
もし、この作品に差別的な描写があったとすれば、それを告発する研究でも作品でもコラムでも出せばよい話です。たとえば私の愛読書の「ジェイン・エア」もポスト植民地主義の観点からバーササイドの言葉で「サルガッソーの広い海」とう本がジーン・リースによって書かれてノーベル文学賞を受賞しています。
少なくとも映画を配信停止にして、その歴史の地層を埋めることはあってはならないと思います。奴隷貿易の痕跡が負の遺産として登録されるように、もし誰もが知る名作に人種差別の影があるのなら、その地層を徹底的に分析すべきです。そして、私たちの無意識の中にある、刷り込まれた差別や偏見を洗い出すべきです。学問とはそのためにあります。

このようなことを許せば、「大草原の小さな家」は、原住民差別?開拓者の魂と、家族の愛と、厳しい自然の中で生き抜く力を描いた名作なのに?
「若草物語」は女中のハンナが黒人ですが、差別でしょうか?あれだけ少女たちの瑞々しい個性を感性を描き出して私たちを勇気づけてくれたのに。

そういえば、ゴーギャンがタヒチで未成年の少女たちを愛人にしたことも、最近問題にされました。女性として、娘を持つ母として、思うところはありますが、それでもゴーギャンの作品の鮮やかさ、タヒチの美しさ、女性たちの素晴らしさを損なうものではないと思います。

文化の盗用、についても言われますが、たとえば「ティファニーに朝食を」の日本人ユニヨシさんの滑稽さ、「キルビル」での明らかに間違った日本、「オースティンパワーズ」は相撲を馬鹿にしてるところがありますし、子供向けの「サンダーマン」でも、アジア系はよく水をかけられたり、指をさされて笑われたりする対象だったりして、ああ、アメリカにおけるアジア系の立ち位置ってそうなんだ、と哀しい学習をしたりしますが、そういうことは作品そのものとはまた別の問題だととらえています。どうしても気になるのなら、それについていつかまとめて書くことがあるかもしれませんが、それを差別だ!放送禁止!配信停止にしろ!と叫ばないのは、それぞれの作品の本質が人種差別にあるわけではないということはわかっているからです。

そう、作品の一部分だけ見て、それが差別的だ!と判断するのは、肌のや髪の色を見て判断すること全く同じなのです。
作品の本質を見極めないこと、そのひとそのものを見ずに切り捨てることはなんら違いがありません。

私はペニーレインに落書きをしたひとが、どんな人種であれ、そのひとはレイシストであると判断します。

人間の尊さを蔑ろにすることと、芸術作品たちを汚すことは、まったく同じ行為です。

気持ちもわからなくはないのです。以前木村花さんの誹謗中傷と自殺について書きましたが、自分が攻撃され、損なわれたと感じると、そこだけに囚われてしまって、本来の姿の見るべき尊さが見えなくなります。

だからこそ、このペニーレインの落書きをの見たときは、私はなるべく冷静でいようと思いました。このことに腹を立てて、誰かを攻撃したとしたら、ますます憎しみが連鎖すると感じるからです。最低限の正当防衛ですら、逆恨みをして攻撃し続けてくるひともいる世界ですから。

私達ができることは、人や作品や物事の一面を見て激高しないこと、その怒りに誰かを巻き込んで憎しみの渦を大きくしないことだと思います。

私たち自身が「レイシスト」になりうる可能性は、いつだってそこかしこに潜んでいるのです。


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