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Friday night essay 『月のようなひとでありたい』

2日前の水曜日。自転車にまたがって走り出した瞬間、肌にあたる風や空気が秋になっているのを感じてすごく感動した。
ついこの間までは暑くて暑くてほんとうに息苦しい空気だったし太陽の灼熱のパワーもすさまじかったのに、9月になってこれからすこしずつ秋になっていくのかな、そういえば最近日の入りがすこしだけ早くなったな、とちょうど思っていたときだったから。夏も終わりに近づいてほんとうに秋に変わりつつあるんだなあ。
そしてなにより、自然はきちんと季節をまっとうしてるんだと実感できたことも感動した。自然ってやっぱりすごいな、わたしたち人間ももうすこし自然の流れに身を任せられるようになったらいいのかなあ、とかそんなことを考えながら自転車をこいだ。風がとっても気持ちよかった。

そして自転車通勤をしているのもあって、8月は猛暑に負けずにとにかく無事に生きぬけば合格、みたいなふうにわりと真剣に考えていたけれど、なんとかこうして無事に生きぬけたみたいでひとまず一安心。あっという間な1ヶ月だったけれど結構がんばったと思う、わたし。あの信じられないくらいの猛暑のなか自転車をこぎつづけて我ながらえらい(たまに送ってもらったりした日もあるけれど…)。汗をかきながらがんばって自転車をこいだわたしのことはちゃんと褒めてあげたい。えらい。わたしだけじゃなくてあの暑さのなかなんとかがんばって乗りきったみなさんすごくえらい。拍手…!!ぱちぱちぱち…!!ほんとうに暑かったものね…。なんだかひと夏終えてすこし強くなれた気がしませんか…?しないですかね…?しないかな…。

まあそんなこんなで8月は結構必死に毎日を続けてきた感覚もあるから余計にあっという間な1ヶ月に感じられたのかな。
とはいってもまだ完全に夏が終わったわけでもないから、本格的な秋がくるまではまだ油断せずに過ごしていきたいと思う。なんかまだ猛暑日がおそってきそうな気もするし…わからないけど。でも願わくばもう暑い日は来ませんように…。あの灼熱の暑さはもうご勘弁なので…。

そんな秋のはじまりを意識し始めたここ最近のわたしだけれど、じつは自分のなかでひとつ決めたことがある。
それは、夏の太陽のような明るい人間に無理になろうとしない、ということ。

すこし前のnoteで、最近お疲れぎみですという趣旨のことを書いたのだけれど、たぶん自分で勝手に課していたある種の“義務感”みたいなものが最近お疲れぎみになっていた理由のひとつだと思う。というかそれが結構大きな理由を占めていたと思う。
なにを義務感にしていたかというと、職場では明るい人間でいなきゃ、と自分で自分に勝手に課していたこと。
そもそもこういうふうに決意する時点でわたしは明るい人間ではない。
ひとりでいるほうが断然好きだし、というかひとりの時間がないと充電切れを起こすタイプだし、だからひとり時間が最高に幸せと思う人間だし、“話す”ということ自体にもものすごくエネルギーを使う。だからできることなら職場でもあまり言葉を発することなく、ただただ黙々とお仕事をしていたい。事実、「あれ?今日はなんかあんまり疲れてないな?なんでだろう?」と思うときはだいたいその日の口数が極端に少なかったとき。だからわたしは話すことにすごくエネルギーを使うんだな、とそのときはすごく納得した。
……ただ。ここがわたしのわがままな部分でもあるのだけれど、だれともまったく話さないのもそれはそれですこしだけさみしくなる。だっていまの職場の方たちはほとんどが優しいひとばかりで、人としても尊敬できるひとがほとんどで、お話していると嬉しくなるひとがほとんどで。だからこそ、こんな基本静かに無口に過ごすことが好きなわたしでも前よりはお話することが好きになった。お話するって楽しいんだなって思えるようになった。
とはいいつつもやっぱり根本の性格は明るくないから、みんなでわいわいしたりお話しつづけたりするのは向いていない。かなり。だからほどよくお話して、ほどよく無口に過ごしたいな、と思う。わがままかもしれないけれど、これが一番の理想。

なんだかすこし話がそれてしまったけれど、そんな生粋のひとり大好き・静かでいるのが大好き人間が明るくいなきゃと無理に思ってもただ気持ち的に疲れちゃうだけだ。それについていこうとしてくれる身体も疲れてしまう。だってそれはわたしではなく別のだれかを演じてることになるから。

そう。わたしはここ最近までずっとわたし以外のだれか・別人を演じようとしていた。“わたし”っていう人間、“わたし”っていう人間が持つ性格を完全に無視して、理想のだれかになろうとしていた。みんなを元気にさせられるような、その場を明るくさせられるような、明るい人間に。
でもそんなことをしても疲れちゃうだけだし、そもそも性格的にできないし、なによりもわたしがかわいそうだ。せっかくわたしとして生まれてきたのに、そのわたしを全無視して別の架空のだれかになろうとしてもただ最後にむなしくなるだけ。だからわたしはわたしの性格をちゃんと受け入れて、そんなわたしでもall okよ!と思おうと最近決意したのです。

そしてそんななかでわたしのなかでしっくりきた考え方が、タイトルの“月のようなひとになること”。

太陽みたいに無理に明るく輝いていたり光っていたりする必要はまったくなくて、月のように、あるいは暗闇のなかで淡く光るキャンドルのように、ほんのりとした光や穏やかさを失わないくらいの明るさでいられたらそれでもう充分。自分の半径すこしだけを優しく照らせる人間であればそれで充分。だれかの目からみたら暗いと思われるかもしれないけれど、暗さを含んだ明るさのほうがわたしには一番合ってるから。それにだれかからの評価なんて結局はそのひとの物事の捉え方とか視点の違いでしかないから、そんなこと気にする必要もまったくない。わたしはわたしの明るさで生きていけばいい。暗さを含んだわたしで大丈夫。

でも同時にそんな暗い自分を受容しつつも、わたしとは正反対のひとへの憧れは無理に捨てなくてもいい。明るいひともわたしは大好きだし、その明るさにすごくパワーをいただいているから。落ち込んだときも笑わせてもらったりしてるから。わたしは決してそんなふうにはなれないタイプだからこそ、わたしと正反対の方への憧れは大切にしていたいなと思う。

そんなふうに考えられるようになって、そして日常でもそれを意識して過ごそうと思ってからは、すこしずつではあるけれど気持ちも楽になってきた気がする。明るさを演じなくてもいいんだ、ってわかっただけでもすこしは生きやすくなった。それでもまだ演じることから抜けきれてはないけれど、すこしずつ心の力を抜いていけたらなと思う。

無理に明るいひとになる必要はまったくない。暗さを含んだ明るさがわたしには合っているのなら、それを武器にして日々を過ごしていこう。

この考え方をお守りにしながら、これからもわたしなりの明るさで生きていきたいなと思います。
わたしの身体や心にとっては太陽よりも月のような雰囲気が合っているし落ち着くから。夜のような考え方のほうがなんだか心穏やかになれるから。

そんなことを思った金曜日の夜でした。

最後までお読みいただきありがとうございます✽ふと思い出したときにまた立ち寄っていただけるとうれしいです。