短編小説『お昼休みの非常階段』
そんなそれぞれの思いとは裏腹に、今日もまた、新たな一日がスタートする。
♦♢♦
「ちょっと、橘さん。2年2組の春見くん、また今日も英語の授業欠席したでしょう?」
4限目の授業を終え職員室に戻ると、後ろからキンキンとした声がきこえてきた。振り返ると、わたしとおなじ英語科の坂井先生が腕組みをしながら険しい顔つきで立っていた。瞬間、ファンデーションのきつい匂いがマスク越しにでも鼻をついた。わたしは眉をしかめないようにと眉間に意識を集中させる。
「あっ、そうなんです・・・・・・。2限目からはちゃんと登校してきたらしいのですが・・・・・・」
彼女を刺激しないよう、わたしは弱々しく返事をした。しかしそんな態度に余計苛立ったのか、坂井先生は大げさなくらいに眉を上げた。
「そうなんです、じゃないでしょう。今年先生になったばかりだからってそんなに甘い理由は通用しませんからね。毎回あなたの授業を休んでるんだから、あなたが責任を持ってきちんと注意してください」
「はい、申し訳ありません」。そう言おうと口を開きかけたけれど、それを聞くこともなく坂井先生はすぐに自分の机に戻ってしまった。
はあ、とため息をつきそうになって、慌ててそれをひっこめる。生徒間のみならず、先生たちの間でも“地獄耳”と称されるくらいだ。微かなため息でさえもキャッチしては、またなにか言われてしまうだろう。
代わりにマスクのなかで唇をキュッと噛みしめる。そのわたしをチラチラと様子見する、まわりの先生たち。「───お気の毒に」。そう顔に出ているのが横目からでもわかった。
わたしは耐えきれず両手に抱えていた書類を自分の机に置くと、お弁当箱を持って逃げるように職員室の出口に向かう。取っ手に手をかけた瞬間、遠く後ろのほうから、「ちょっとぉ、宮本先生。今日も揚げ物ばっかりの大盛りのお弁当なんて、もっと身体大事にしなきゃだめよぉ」という坂井先生の笑い声が聞こえた。わたしは今度こそため息をつくと、足早にある場所へ向かった。そう、この学校で唯一の憩いの場所───屋上へとつづく非常階段だ。
階段を上りいつもの場所に腰をおろすと、さっきよりももっと深いため息が自然と口から出た。
職員室が息苦しい場所になったのはいつからだろう。気がつけば、職員室でお弁当箱を広げることに恐怖心を抱くようになった。自意識過剰だとわかってはいても、周りの先生たちの目が気になって身体が勝手に怖気づいてしまうようになった。最初はがんばって自分を保っていたけれど、もう耐えきれなくなった。そして、もっと心を楽にして食べられる場所はないか───こっそりと探し歩いてやっとみつけた場所がここ、屋上へとつづく非常階段だった。
多くの学校とおなじく、この中学校も生徒が屋上に行くことは禁止されている。だからいつも閑散としていて、その静けさが逃げ場所としてはぴったりだった。ここはだれにも邪魔されない、わたしだけの空間。それがいまのわたしをどれだけ支えてくれているか。
わたしはひんやりとした手すりにすこし手を触れ、気持ちを切りかえるよう軽く頭をふった。そして素早く、でも音を立てないように気をつけながらお弁当のフタをあける。そこには、色とりどりのおかずたちが顔をのぞかせていた。いまのどんよりとした気持ちとはまるで正反対の色合いに、安心感のような、虚しさのような、なんともいえない感情がわたしの胸を締めつけた。それをなんとか押しのけて、弱々しく両手を合わせる。
「・・・・・・いただきます」
まずはひとくち、大好きな唐揚げを口に入れようとした、その瞬間。
「うわっ」
「えっ」
ふいに下のほうからちいさな声がして、つられるようにわたしも声を出してしまう。その拍子に、唐揚げが白米の上にポトッと落ちた。ああよかった床に落ちなくて、と一瞬思いかけて、ちがうちがう、そうじゃないでしょ、と自分にツッコミをいれる。
急いで下をみると、そこにはなんとさっきまで話題にしていた彼───春見くんが立っていた。そう、わたしの授業を何回も欠席している張本人だ。
「・・・・・・春見くん?」
おもわず声をかけると、彼は驚いたような顔をしてこちらを見上げていた。
「どうしたの?こんなところで」
「いや・・・・・・。あんたこそなにしてんの?」
「わたしは」
ここでお昼を食べようと思って、と口に出す勇気はなかった。教師が人目につかない非常階段でこっそりご飯を食べようとしていた───その事実が恥ずかしくて、そしてそれを正直にいえない自分のプライドの高さに嫌気がさして、きゅっと口をつぐんでしまう。とはいっても、唐揚げを口に入れようとした瞬間は彼に見られていただろうから、わたしがなぜここにいるのかは一目瞭然だろう。
それでもなんと答えるべきか必死に頭を働かせていると、ふと彼の手元に目がいった。そのなかに握られていたのは、緑色のロゴが入った見覚えのあるちいさなコンビニの袋。
「・・・・・・春見くんももしかしてお昼ごはん?」
ついなにも考えずそう問いかけると、彼はそれをサッと後ろに隠した。
「・・・・・・そうだけど」
意外だった。彼のことはまだよく知らないけれど、クラスのムードメーカーでいつもたくさんの友だちに囲まれている光景は度々目にしていた。いじめられてるとか、みんなから距離を置かれているとか、それとは程遠い存在だと思っていたからこそ、なぜここでひとりお昼ごはんを食べようとしていたのか不思議だった。
わたしが黙っていると、彼はすこし首をかしげた。
「なんだよ、こんなとこで飯なんか食うなって怒んねえのかよ」
そう言われてハッとする。そうか。本来ならここは怒らなきゃいけないシチュエーションなのか。普通の教師ならすぐに思いつくはずなのに、わたしは生徒に指摘されないとこんなこともわからない。ますます気分が暗くなった。
「・・・・・・あなたを怒れるほど、まだわたし先生やってないし」
半ばやけくそになりながらそうつぶやくと、春見くんは面食らったように目をパチパチさせた。その様子をみて、意外と素直に顔に出る生徒なんだな、とすこしだけ気持ちがほぐれる。
しかしそう思ったのもつかの間、春見くんはわたしに背を向けなにも言わず階段をおりようとした。
「ちょ、ちょっと!帰るの?」
慌てて呼び止めると、彼は面倒くさそうに振り返る。
「はあ?教師がいるっつーのにここで昼飯食べるわけないじゃん」
「でも・・・・・・そしたらお昼ごはんはどこで食べるの?」
「知らね。とりあえず明日からここには来んな。俺がせっかく見つけた場所だから」
「あ、今日はいいんだ」
純粋にそう言葉にすると、
「ケンカ売ってます?」
春見くんは一層声を低くしてわたしをにらみつけた。
「えっ、ちがうちがう、そうじゃなくて!」
やばい、結構こわい、どうしよう。と思ったそのとき。
「───あれ、1組の佐々木じゃん」
ふと下をのぞく春見くん。わたしもおなじように顔を出すと、見知らぬ顔の生徒が下からわたしたちのことを見上げていた。
「だれ?お友だち?」
「いや、ちがうけど」
教師と生徒、ふたり同時に上から見下ろされて焦ったのか、彼は「あっあっ」と慌てふためきながら両手をひらひらとさせた。かなり動揺しているらしい。
「あっ、す、すみません!ぼく佐々木です・・・・・・って、あれ?なんでぼくの名前・・・・・・?」
「ああ、あんたがよく裏庭のベンチにいるのみかけてたからさ。他のやつらに聞いたら転校生だっていうからめずらしいなって思ってただけ」
「あ、なるほどです。・・・・・・はじめまして。今年転校してきた2年1組の佐々木です」
先ほどの慌てっぷりはどこかへ追い払ったのか、ご丁寧にペコリとお辞儀をする佐々木くん。なるほど。1組はわたしの担当外のクラスだ。見覚えのない顔だったのもうなづける。そうだ、わたしも自己紹介しなきゃ、と気がついて、「あ、わたしは今年教師になったばかりの橘です。一応英語科です。よろしくね」と慌てて頭をさげた。そして一時の沈黙。なんだろう、この間は?と考えていると、
「・・・・・・えと、ぼく、お邪魔、ですよね・・・・・・?」
佐々木くんの、遠慮がちな、なんともいえない声色が宙を舞う。
「は?」
「え?」
予想だにしなかった言葉に、わたしと春見くんが同時に声をあげる。
「あっ!あの!だ、大丈夫ですから!ぼく、お二人のことはだれにも言いませんから・・・・・・!」
・・・・・・どうやらこの佐々木くん、とんだ勘違いをしやすいタイプらしい。どこをどう解釈したらそんな勘違いに行き着くのか。春見くんをみると、彼も呆れたように佐々木くんの顔をみている。
「あのさ、なにを勘違いしてるのかわかんねえけど、おれはただ昼飯を食いにここに来ただけだよ。そしたらこのひとが先にいたからしらけて帰ろうと思ってたとこ」
わたしの顔は一切見ずに、冷たい目をしながら冷たい言葉を吐く。そのすべての態度に、そして、「ああ、わたしはやっぱり“このひと”という一単語の存在でしかないんだな」という事実にただひたすら悲しくなる。思わず手をぎゅっと握りしめてしまう。
空気が重たくなったのを感じていると、佐々木くんがまたしても遠慮がちに口を開いた。
「え、それなら・・・・・・3人で食べません・・・・・・?お昼」
思いがけない提案に、またしても一時の沈黙。
「一緒って・・・・・・。もしかして佐々木くんもいつもここでお昼食べてるの?」
「いえ、いつもは裏庭のベンチで食べてるんですけど、昨日の雨で濡れてて。他に食べる場所ないかな、ってこの辺りを探してたらなんか上から声が聞こえてきたので、陰から気づかれないようにこっそりのぞいてたんです」
ぶっ、と春見くんが口をすぼめる。どうやら佐々木くん、純粋そうなキャラをしているけど意外とそういう面もあるらしい。
「・・・・・・ぼく一緒にお昼ごはんを食べるひとがいなくて。転校してきた当初はみんな誘ってくれてたんですけど、うまく会話に入っていけなくていつの間にかだれも誘ってくれなくなって・・・・・・それで」
「あー、わかったわかった」
いまにも泣き出しそうな佐々木くんに気を遣ったのか、春見くんが先ほどの彼のように大げさに手をひらひらさせる。
「おれは遠慮しとくけど、このひともひとりみたいだし、おふたりでどうぞ」
「えっ、なら春見くんも一緒に食べようよ。どうせここで食べようと思ってたんでしょ?ちょうどお説教しないといけなかったし、3人で食べよ」
冗談混じりにそういうと、わたしは階段を下りて「おい、やめろって」と嫌がる春見くんをすみっこのほうにむりやり座らせる。
「今日くらいいいじゃない。さっ、3人で食べましょ」
そういうと、佐々木くんがうれしそうに笑った。
「なんか先生、先生じゃないみたいです」
その言葉に、わたしはなぜか心がほっと安堵するのを感じた。“先生じゃないみたい”。純粋無垢なその言葉が、ずっと張りつめていた心の重荷をすこし軽くしてくれた気がした。
「まあ今年教師になったばかりだから、ね」
おどけながらそういうと、わたしも腰を落ち着かせてお箸を手に取る。そのまま唐揚げを口に放りこむと、油がジュワッと染み出した。その旨味がわたしの気持ちをさらにほぐしてくれる。隣をみると、佐々木くんも「いただきます」ときちんと手を合わせてからご飯を口にいれた。
その様子をみて春見くんもようやく観念したらしい。小さくため息をつくと、ビニール袋からおにぎりを取り出し、黙ってバクバクと食べ始める。しばらくの間、3人とも無言でご飯を食べ進めた。きっとお互いに聞きたいことはあるだろうけれど、だれもそれを発しようとはしない。そのことがいまのわたしにはありがたかった。もしかしたら無言でごはんを食べているふたりも、そう思っているのかもしれない。
♢♦♢
「本当はさ」
お弁当箱のなかがほとんど空になったころ、わたしはようやく顔をあげた。
「春見くんが何回もわたしの授業に遅刻してくるの注意しようって思ってたけど、今回までは見逃してあげる」
「・・・・・・」
「ただし次からはちゃんと出てきてね。・・・・・・わたしと坂井先生がキレないうちに」
意地悪な意味合いも込めてわざとトーンを落としていうと、まったく関係のない佐々木くんが「えっ」と泣き出しそうな顔をした。
「坂井先生ってあの坂井先生ですよね?めちゃめちゃ怖いって聞いたことあります」
「そうなのよ。きっと春見くんの遅刻が改善しなかったら、近々坂井先生が直接お説教にくるかも」
わたしがそういうと、春見くんは今度は大きなため息をついてぷいっと横を向く。
「・・・・・・わかったよ。次からなるべく出るようにするわ」
春見くんがしぶしぶうなづくのをみて、わたしはいけないと思いつつもおもわず笑ってしまう。
「春見くんって意外と素直だよね」
案の定彼は一瞬にして目を吊り上げる。
「あんだ?ばかにしてんのか?」
「ちがうって。わたしも見習わないといけないなって思ったの。・・・・・・だから恥ずかしがらずにいっちゃうね。わたしもやっと生徒さんと面と向かってお話できてうれしい。ふたりのおかげで肩の力がちょっと抜けた気がする」
そういって「んーっ」と背伸びをする。
毎日朝が来るのがこわかった。学校が、先生が、生徒がいるこの環境がこわかった。でもただ黙って3人でご飯を食べているうちに、自分が感じているほどこの世界はこわくないのかも、と初めて思えた。ずっと探しつづけていたこの静かな空間にだれかがいても苦じゃない。それがとってもうれしかった。
「なんかさ、大人になったらふたりとも今日のこときっと忘れちゃうんだろうけど、わたしはたぶん一生記憶に残ってると思う。こんなところで生徒さんと一緒にお昼ごはんを食べる経験なんて、たぶん今日くらいしかない気がするから」
屋上の扉を見上げながら半ばひとりごとのようにつぶやく。
「そんな、ぼくも忘れません。ぼくのほうこそ、先生と一緒にご飯を食べられるなんて経験めったにないですし、それに、なんかようやく仲良くできそうな友だちができたから」
佐々木くんがうれしそうに彼の顔をみる。春見くんはそれに否定も肯定もせず、食べ終えたおにぎりのフィルムをビニール袋にいれていく。
「んじゃ、おれは次移動教室なんでそろそろ」
「あ、ちょっと」
さっさと階段をおりようとする春見くんを慌てて呼び止める。
「ありがとうね、一緒にごはん食べてくれて。春見くんも、佐々木くんも」
そういって微笑むと、佐々木くんがぶるぶると思いきり首をふった。そして、安定のきれいなお辞儀。
「こちらこそありがとうございました。なんかぼく、元気が出た気がします」
そしてもう一度ちらりと春見くんをみる。彼はすこし迷った表情をしてみせたあと、ぶっきらぼうにわたしのほうを向く。色んな意味で、初めて彼と目が合った気がした。
「───あのさ」
「なに?」
「・・・・・・いままで休んでたぶんのプリント、あとで取りに行っていいか?」
その言葉に、わたしはふっと顔をほころばせる。
「もちろん。春見くんのぶんのプリント、きちんととっておいてあるからご安心を」
春見くんが肩をすくめる。きっと彼なりのお辞儀なのだろう。
「じゃあまたね」
手を振ると同時に、校内にチャイムの音が鳴り響いた。それはまるで、この時間がきちんと終わるまで待っていてくれたように感じた。
Fin.
🐙ひとこと🐙
お読みいただきありがとうございました🐇
じつはこの短編小説、2年前に書いたもので。書きかけのまま2年弱下書きのなかに入っていて、たくさん加筆してようやく完成したので投稿してみました。稚拙ですが個人的にはお気に入り作で、今度は登場人物ひとりひとりにスポットを当てた小説も書いてみたいな、なんて思ったりしてます。
それとは別にこんな感じでまだまだ書きかけの短編小説がたくさん眠っているので、自分のペースをみながらすこしずつ更新していきたいと思います。
では🐕
最後までお読みいただきありがとうございます✽ふと思い出したときにまた立ち寄っていただけるとうれしいです。