短編小説『チョコレートと赤い家』
今日は遠回りして帰ろう。高校生のとき、そんな気分になる日がときどきあった。理由は特にないけれど、ただなんとなく、時間を無駄にしたくなることがたまにあったのだ。
だからその日も授業を終え学校を出ると、いつもは右へ曲がる道に背を向けて、ゆっくりと歩き出した。
途中足元に転がっているちいさな石を蹴りながら、「小学生のときはよく友だちとこうして遊んでたな」と思い出に浸ることも楽しみのひとつだった。一種の現実逃避なのかもしれないけれど、構わずにゆっくりと道なりを進んでいく。
それから十分ほど歩いたときだろうか。
ふと遠くのほうに、ぽつん、と赤い屋根の一軒家が建っているのがみえた。まるでファンタジー小説に出てくるかのような、きれいで、おおきなおおきな家だった。
どうしてその家に惹かれたのか。そしてなぜいままでその家の存在に気がつかなかったのか。よくわからない。でも、その日はなぜかその家が目に入ってきたのだ。
もしわたしが小学生だったら近寄ることはしなかっただろう。母にはよく、「知らないひとの家には行っちゃだめよ」といわれていたから。
でもいまのわたしは高校生だ。思春期特有の感傷にひたりながら、こうして遠回りできるくらいの年にはなった。
だからわたしは、単純な好奇心とともに、ゆっくりとその赤い家へと足を向けた。
玄関まで近づくと、茶色いバスケットが置かれているのが目に入った。そしてそのなかにはなぜか、きれいにラッピングされたひとくちサイズのチョコレートが数個入っていた。さらにそこに寄り添うように立てかけられていたのは、てのひらサイズの一枚のメッセージカード。ゆっくりと腕をのばし、手にとってみた。すみのほうに、かわいらしいくまがコーヒーカップを手に持ちながら椅子に座っている絵が描かれている。そしてカードの真ん中には、流れるような筆文字とともにこんなことばが書かれていた。
たくさん作りすぎてしまいました。もしよろしければ、お好きなだけどうぞ。
わたしは首をかしげる。
たくさん作りすぎた?だったらどうしてだれにもあげずにこんなところに置くのだろう。そもそもこんなことを書いて、「やった」なんて喜んで手にとるひとなんて絶対にいないだろう。
わたしは、やばいところにきてしまった、と悟った。好奇心なんかに従わずにさっさと家に帰ればよかった。そう後悔した。
そのとき、奥のドアからひとりの女性が出てきた。わたしは思わず立ち上がり、急いでその場を離れようとした。こんなところにこんな怪しげなチョコレートを置くようなひとだ。関わらないほうがいいに決まってる。
でも、「お嬢さん」と呼びかけたその声の雰囲気がとてもやわらかいことに気がついたわたしは、足を止めた。そのまま立ちすくんでいると、おばあさんはすこし足早に歩みよってきた。年は70代前半くらいだろうか。すこし腰は曲がっているものの、ピンクがかったぷっくりとした頬が彼女に健康的な印象を与えていた。
「こんにちは」
その声は、まるでそう。チョコレートのように甘くしっとりとしていた。
「あ、こんにちは……」
わたしはしどろもどろになりながらなんとか返事をする。
「こんなところにチョコレートが置いてあって、びっくりされたでしょう」
わたしがひどく緊張しているのがわかったのか、おばあさんはより一層声をやわらげた。
「いえ……。あ、まあ」
わたしの正直な返答に、口に手をあてながら「そうよねえ」と笑う。
「あの、このチョコレートは……?」
どうしてこんなところに置いているのか。聞いてはいけないかもしれない、と一瞬思ったけれど、ここでもまた好奇心のほうが勝ってしまった。
「ちょっと身の上話になってしまうけど、いいかしら?」
上品に口もとに手をあてながら、おばあさんが上目遣いにわたしをみる。わたしは、はい、とうなづいた。
「実は一年くらい前かしら。ずっと連れ添っていた主人を亡くしてね」
おばあさんが愛おしそうにチョコレートをみつめる。
「いままではお菓子を作ったら主人が食べてくれていたんだけど、亡くなってからはあげるひとがいなくなっちゃったの。でもお菓子作りが趣味なものだから、作るのはやめられなくって。ひとりじゃ食べきれないから、だれかにおすそ分けしようと思ってこんな変なことを思いついたのよ」
わたしはなにもいえずにいた。もしかしたら毒でも入ってるんじゃないか、一瞬でもそう思った自分が恥ずかしくなった。
「……あれ、でもご近所さんとかは」
そういいかけて、やめた。広い敷地にただ静かに建っているおばあさんの家。その周りには、家らしき家が他にないのだ。きっとこの広大な土地は全部、おばあさんの私有地なんだろう。だからここにぽつんとさみしく建てられているのだ。一応遠くに目をやればちらほら家が建っているのはみえるけれど、“ご近所さん”と呼べるほどの距離ではない。
「そう、あそこまでいくのもなんだかはばかれちゃうのよ。だからここに置いてみたらだれか持っていってくれるかしらと思ったんだけど、でもやっぱりだめね。みんな気味悪がって手にとってくれないみたい」
いや、そもそもこの私有地に入ってくるひとがいないんじゃないだろうか。……わたしみたいに好奇心丸出しなひと以外は。と、心のなかでつぶやく。
そしてわたしはもう一度チョコレートに目を向ける。おばあさんへの警戒心はいつの間にか消えていた。
「あの。よかったら、ひとつください」
わたしがそういうと、おばあさんは「あらまあ」ととてもうれしそうな顔をした。その無垢な笑顔はまるで小学生のようだった。
「うれしいわ。ひとつといわず、たくさん持っていってちょうだい」
そして興奮したように、わたしの手のなかにチョコレートを数個持たせる。わたしはすこし苦笑いしながら、「いま食べてみてもいいですか?」と訊いた。
「もちろん」
ていねいにフィルムをはがし、そして口のなかにいれる。
それは、大げさではなく、いままで食べたチョコレートのなかでいちばんおいしかった。
ミルクが多めに入っているのか、まろやかでやわらかい。口のなかに入れた瞬間、それは舌の上を撫でるようにゆっくりと溶けていった。
「すごい。おいしいです、これ」
「あらあら。ありがとう、うれしいわ」
おばあさんはすこしだけ目をうるませながら微笑んだ。その笑顔をみて、ようやくわたしは体の力が抜けるのを感じた。
♢
その日以来、わたしはときどきおばあさんの家にお邪魔するようになった。
なんとなくおばあさんに会いたいな。
なんとなくあのチョコレートを食べたいな。
そう思ったとき、わたしはあの家に足を運んだ。
おばあさんはわたしがいつきてもいいようにと、紅茶とお菓子を用意してくれていた。それをいただきながら、ときには家族の愚痴、ときには恋愛相談にのってもらいながらたくさんお話をした。おばあさんは特にアドバイスをするわけでもなく、わたしの話をただうなづきながら聞いてくれた。それがわたしには心地よかったのだ。そんな楽しい日々は半年ほど続いた。
しかしその生活にピリオドを打ったのは、ほかでもない、わたしだった。
高校三年生になったわたしは、受験勉強が忙しくなりだんだんとおばあさんの家へ遊びにいかなくなった。受験生だというのに同時期に彼氏もできて、毎日のように夜遅くまで一緒に勉強をした。必然的に、遠回りをして帰ることもなくなっていったのだ。
そして受験が終わり、彼氏ともささいなことで別れ、暇を持て余したとき。ふとおばあさんの顔が思い浮かんだ。それと、あのチョコレートの味。
おばあさんは元気だろうか。久しぶりにお邪魔しようかな。
そう何度も考えた。でも結局会いにいくことはしなかった。
あんなに親切にしてもらったのに、なんのあいさつもしないまま勝手な理由で距離をとっていったのだ。いまさら会いにいったところで、お互い気まずいだけだろう。そう思った。わたしは逃げることを選択したのだ。
そして、一年、また一年と年月を重ねていくうちに、わたしはおばあさんの顔もチョコレートの味も忘れていった。
♢
『―さて、続いては去年デビューしたばかりのロックバンド・桜吹雪の新曲、〈réunion〉をお届けします!』
アナウンサーの甲高い声ののち、ギターの音が車内に鳴り響く。わたしはその音から逃れるように窓を開けた。
運転席には夫。わたしは、今年3歳になる娘ー花音と一緒に後部座席に座っていた。
いまはお盆の時期で、夫と娘とともにわたしの実家に向かっている途中だ。懐かしい風景に心を躍らせていると、あのときのことが急に蘇ってきた。
「……そういえば」
わたしがぽつりとつぶやくと、花音がすぐに「なあになあに、まま?」と反応する。まったく、ちいさい子どもの耳はあなどれない。
「……パパ、ちょっと寄っていきたいところがあるんだけどいい?」
わたしが運転席へ身を乗り出すと、「ん?構わないよ」と軽やかに答えてくれた。
「花音、ちょっとだけままに付き合ってくれる?」
「うん、つきあう!」
花音が楽しそうにバンザイをする。そして夫は路肩に車を停め、静かにエンジンを切った。
「おれはここでゆっくりしてるから、いってらっしゃい」
「うん。ありがとう」
「ぱぱ、いってきまーす」
花音がおおきく手をふる。わたしはその手をぎゅっと握って、当時の道を思い出しながら歩いていく。
すこしすると、見覚えのある赤い屋根の家が目に入った。
間違いない。十年前におばあさんが住んでいた家だ。まだちゃんと残っていた。
ほんのすこしの期待を抱きながら玄関まで近づく。でも、そこにバスケットは置かれていなかった。当然、あのかわいらしいくまのメッセージカードとチョコレートもない。
「……おばあさん、もうお菓子は作ってないのかな」
家を見上げるけれど、中に誰かがいる様子はない。ここにはもう、だれも住んでいないのだろうか。十年間も忘れていたくせに、そう思うとひどく悲しくなった。
「ねえ、まま!みて、これかわいいよ」
突然おおきな声がした。みると、花音がおいでおいでと手招きをしている。
「なあに?」
わたしは笑いながら近づいた。でも次の瞬間、わたしは「あ」とちいさく声をあげた。
そこにはバスケットがあった。茶色ではなくピンク色だったけれど、見覚えのある形だった。そしてそのなかには、手編みだろうか、チョコレートの形をしたちいさなあみぐるみが2つ。それは、あのときおばあさんにもらったチョコレートとそっくりだった。
呆然とするわたしに、花音が「みてみて」と手に持っていた紙を渡してきた。そこには、流れるような筆文字でこう書かれていた。
かわいい子を思い浮かべながら、一生懸命編みました。このチョコレートはお口にできないけれど、ほんの気持ちだけ。お身体には気をつけてくださいね。
すこし汚れたカードと一度みたことがあるその文字に、わたしはあふれてくる涙を止めることはできなかった。そして次の瞬間、忘れていたおばあさんの顔とチョコレートの味が鮮明に蘇ってきた。
わたしはそっとあみぐるみに手をのばす。花音も、わたしをまねるようにひとつ手にとった。
「まま、これ、ほんものみたいで、おいしそうだねえ」
花音がチョコレートをよしよししながらいう。
わたしもそっと撫でてみる。ていねいに編まれたそれは、とても愛おしいものにみえた。
「……うん、とってもおいしいチョコレートだったよ」
あのミルクがたっぷり入った味とおばあさんの笑顔を思い浮かべながら、わたしはそうつぶやいた。
最後までお読みいただきありがとうございます✽ふと思い出したときにまた立ち寄っていただけるとうれしいです。