終わりと始まり
朝、3時半
眠たい目を擦りながら、真っ暗な中、車に乗り込む。
久しぶり10時間ほどの運転なので、頭が冴えることだろうと思っていた。車内は、静かにパイプオルガンの曲が流れていた。
高知で過ごした日々が走馬灯のように、走り去ってゆく。トンネルから出た瞬間、眩しい光、新緑から色濃く塗ってゆく木々、私は静かに涙した。
もう絶対に戻れない道を私は、歩いてる。その絶対的な確かな事実。寂しさとか怖さとかいろんなものが、反応して込み上げる。
「自信、、そんなものありません。」
気づけば、弱気な言葉を放ち、私は心底この人たちを頼りにしているのだと思った。放つことで、自分の本当にやりたかったことから目を背け、自信はない、という自信を持っていた。
目を凝らしてみれば人生は、「終わり」という節目でいっぱいだ。
私は、とさ立志塾を離れることを決めた。それは、自然なことだった。
「肩書きでもいいから、籍を残すのはどうかね?」と、聞かれたがわたしにとって人生の肩書きはもはやどうでもよかった。
“他人の求めている人生を生きるのではなく、自分の人生を生きる”
ふと、探し求めた自由の正体は、「誰かが決めた価値観の中の幸せ」から離れることだったのかもしれない。「自分のことは、どこまでも自分で決めるという覚悟」を自由と呼ぶのだろうと、今の私は思う。だからこそ自由は、孤独とか寂しさとかとは、どこか切り離せないのだ。
わたしがわたしとして、ど真ん中で泥臭く、新しい道に挑む方が、純粋に今よりもっと前に進めると思った。
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人間を超えた知能や技術の時代が来るからこそ、これからの人間に必要なことってなんだろう?
わたしは、人間の可能性を信じる力だと思う。人間味溢れるあたたかさが、高知にある。私の凝り固まった心をゆっくりと溶かし、そして、固めてくれた。だから、私はこの土地が大好きなのだ。
私を育ててくれた愛着のある高知という場所を、手放すことを心の奥底で、望んでいたのかもしれない。
人は等しく、誰だって辞め難い。終わりは寂しい。
“おわり”の背後には、いつだって”はじまり”が存在している。
その一筋の光を見つめて、この地で深く呼吸し、じんわりと根を張っていくんだなと、深緑に染まった木々を見上げながら、愉悦に浸っていた。
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