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ショート・ストーリー~腕時計

私は、いつも男物の黒いデジタル時計をつけている。

なぜこれを買ったかも忘れてしまった。

防水だし、字も大きくて見やすい。バイクで通勤するときも便利だ。


娘を育てるため、という大義名分のもと、私は文字通り朝も昼も夜も働いた。

お金のことももちろんある。

だけど一番の理由は、そのほうが楽だったからだ。

何も考えず、帳面消しのように仕事をこなすことは、私にとってはありがたかった。


通帳に刻まれる数字が、すこしずつ大きくなることと引き換えに、

私は女としての艶や、ふくよかさを棄てた。


ママの手、男のひとの手みたいね。

昨日娘から言われた手を見てみる。筋ばっていて、ささくれが目立つ。

ハンドクリームのCMのような手とはお世辞にも言えない。

でも、いいのだ。

自分の体を酷使することが、いつしか私の存在意義になっていた。

それはずっとずっと、続くのだろう。

途切れそうで、でも細々とどこかへ繋がっている頼りない川のように。


の、はずだったのだが。

強固な私の世界を、こじ開けて入ろうとする男性がいま、ここにいる。

同じ部署の、3つ下の後輩だ。

「さっきから僕の話聞いてないでしょう」

彼は、コーヒーを飲みながら口をとがらせた。

平日、夜のファミレス。

腕時計が、22時を知らせている。

私は娘が寝付いたかどうかを母にLINEで尋ねていた。

「ああ、ごめんなさい。娘が寝たか確認してた」

さっき寝たよ。明日はお弁当みたい。

母からの返信に、眉をよせる。明日は30分はやく起きなくちゃ。

「何回も言わせないでください。僕だって恥ずかしいんですから。」

「いや、だから私は娘がいるし、それに」

「それに?」

彼は、まっすぐに私を見つめる。あまり見たことのない真剣な表情。

とくん、と心の音がした。

「それに・・もう私こういうのは・・」

「自分の体を痛め付けて、ニコニコしてるけど、死んでるのもいっしょだよ、今のあんたは」

彼の言葉は、鋭かった。


死んでるのもいっしょだよ。


体のなかに、氷の矢を打ち込まれたような感覚だった。

動けない。悔しい。

何かいい返したいけれど、何も言葉が浮かばなかった。

彼は、目を細めてにっこり笑った。


その表情に、やられた、と思った。

「偉そうなことを言いました。自分を、もっと大切にしてください。」

彼のあたたかい手が、私の手に触れる。


いやだ。

こんなガサガサの手、はずかしい。

とっさに引っ込めようとした手を、彼はもうひとつの手でつつんだ。

「まっすぐな、働きものの手です。僕は好きですよ、この手」


店を出ると、梅雨入りしたばかりの、もったりとした闇が広がった。

「今だけ、これには休んでもらってください」

彼が、私の時計をはずす。

私の手首が軽くなる。何年ぶりだろうか。

「こうするのに、ちょっと邪魔なんでね」

彼は私の手をとり、

それから私たちは手をつないで。


長いこと闇のなかをただ、歩いた。








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