【夏の思い出企画】ショートストーリー~夏の幻
「あっつ!あと何軒ですかー!」
後輩のマツダが泣き言を言う。
「あと3棟だよ。ほらあそこ」
僕はそびえたつ市営住宅を指差した。
8月の光が、まともにアスファルトを焼き、足から熱さが伝わってくる。夏用の革靴、やっぱりケチらず買えばよかった。
夏は嫌いだ。暑さのせいか、時々意識も飛びそうになる。
現実と非現実の狭間にいる感じ。地に足がついていないような、そんな感覚。
僕たちはポスティングの途中だった。僕とマツダは同じ住宅メーカーの営業マンだ。
8月は、夏休みだからかモデルハウスに来客は少ない。事務所にいても仕事にならないので、イベントのチラシを配っているところだ。
「まじ、これ死にますよ。俺が倒れたらちゃんと職務中だった、って証言してくださいよ」
マツダが汗を拭いながら言う。
「ああ、わかったわかった」
僕は生返事をした。早く配り終えて事務所へ帰ろう。こんな無駄話してるほうが辛い。
「よし、マツダはC棟からいけ。俺はこっちからいくから」
「あ、先輩ずるい、こっちのほうが世帯数多いですよ」
「そのぶんこっちは階段が多いんだ」
なんの生産性もない会話を交わしながら、僕はチラシをポストにいれ始める。
今時チャイムをならしてアポ無し訪問したらクレームになる時代だ。よけいなことはせず、とりあえず入れるだけ入れよう。
僕が最後のチラシの箱を取りに車へ戻ったとき、ふと視線を感じた。
暑くてマスクもしているので、メガネが曇ってよく見えないが、日傘をさして赤ちゃんを抱えた女性のようだ。
家に興味があるのかな?
今日はツイテルぞ、と内心喜んで視線を合わせる。
ん?
なんだか、見覚えがあるような・・
「スズキくん」
女性は笑った。この暑さのなかで、涼しげな笑顔。
「久しぶりね」
僕の記憶がするするとひとつの画像を結んだ。
「あっ、ハヤシダさん?」
高校のときの、同級生だ。
しかも、僕が告白してフラれた人。
ハヤシダさんは、赤ちゃんをあやしながらにっこりと笑った。
「ここに住んでるの?」
「そうよ。もう5年になるわ」
「その・・ご主人と?」
僕はおずおずと尋ねる。赤ん坊がいるんだから、そりゃ父親もいるだろう。
ハヤシダさんは、恥ずかしそうに笑う。いまも変わらずきれいだ。
「離婚したの。ちょっと・・いろいろあってね。今はこの子とふたり暮らし」
「そうなんだ・・」
複雑な思いが交差する。
危ないぞ、入り込むな、という思いと
フリーだろ?いまがチャンスだ、という思い。
「この会社に勤めてるの?」僕がさっき配ったチラシをハヤシダさんは手にもっていた。
「あ、うん」
「ポストに入ってて、スズキくんと同じ名前だったから出てきちゃった」
ハヤシダさんはふふっ、と笑った。
「え、わざわざ?」
ハヤシダさんの瞳に、とりこまれそうだった。薄い茶色の、切れ長の瞳。
周りのセミの音も聞こえない。異空間にいるようだ。
どきんどきんと、心臓の音だけが波打つ。
「あの、俺・・」
「あー!先輩!結局俺にBもCも回らせましたね!アイス驕らせますよもう!」
マツダの声がして、はっと我に返る。
「ああ、わかった」
僕はマツダを振り返り、頷いた。
「じゃあ、もし、家買うときは連絡して」
僕はハヤシダさんの顔を見ずに、車に乗り込む。
「先輩、邪魔しました俺?」
マツダが運転しながら、申し訳無さそうに言う。
「めっちゃ美人でしたね。なんていうか、エロい感じの。俺好みっす」
「いや、いいんだ」
僕はつぶやく。
「これで、いいんだ」
あの時マツダが、声をかけてくれなかったらどうなっていただろう。
僕は、助手席から街を眺めた。
真夏の街は時々、こういう悪戯を仕掛けてくる。
僕はやはり、夏は嫌いだ。
riraさん、xuさんの企画に参加させていただきました。ありがとうございます!