天使のお仕事~合コン編⑧
「彼の名前はルシファー。明けの明星ルシファーよ」
そう言い残して、魔族の女性はいつの間にかいなくなっていた。あの口調からすると、彼のことを憎からず思っているのだろう。
私は目を瞑り、想像してみた。
ルシファーの身体中に刻まれた、悪を忌む人の子からの印。私たち天使が授ける福音に人の子は感謝するけれど、その陰にはルシファーたち悪魔部の痛みがあるのだ。
なんてことだ。
私は顔を覆う。
彼はその痛みを一人で受け続けている。
私の300年なんて、遠く及ばない、ずっとずっと前から。
会場の喧騒が気にならないくらい、私はテラスでひとり考えを巡らせた。
「アイリスさん、ちょっと!ちょっとっ!」
辺りを気にしながら呼ぶ声がする。振りかえると、インキュバスが心配そうに立っていた。
「双子の神の次はルシファーさんですかあ。ほんとに、アイリスさんは大物ばかり引くなあ、もう」
「インキュバス・・・」
たしかに、インキュバスのいうとおりかもしれない。
「やっぱりあなたも知ってたのね。聞いたわ、彼の傷のこと。ほんとの話なの?」
嘘であってほしかった。
魔族の女性の、悪い冗談であってほしい。なぜか私は、祈るような気分だった。
インキュバスは苦い顔をする。
「残念ながらね・・。俺だって最初聞いたときは震えました。だって、いくら天使長から堕天したとはいえ、未来永劫、ずっと痛みをひとりで抱えていくなんて・・」
通説では、ルシファーは大天使たちをまとめる天使長であり、神と同等の力も人望もあったという。
やがて傲慢になったルシファーは反乱をおこし、神の怒りを買った。そして堕天し悪魔になったと聞いている。
身体の傷は、その報いというのだろうか。悪魔部だって、役割があるのだ。左遷、と人の子なら言うだろう。しかし、一人だけがなぜその傷を受け続けなければならないのだろう。
「でも・・これ、噂ですけどね」
インキュバスがさらに声を潜める。
「ルシファーさん、反乱なんかおこしてないっていう説もあるんすよ」
「え!?そうなの?」
私はついつい、びっくりして声が大きくなる。
「しーっ!これ天界の闇ですから!大きな声出さないで!・・ほんとに噂なんですが・・でも俺、ありえなくないと思うんです。
だってルシファーさん、悪魔部でかなり人徳あるんすよ。アイリスさんだって見たでしょう?それに加えあの見た目ですよ?」
たしかに、ルシファーは所作も、顔も洗練されていて美しい。
「みんなが言うこときくのは、恐怖からじゃないんだよな。・・・信頼されてるんです。俺の知る限りでは、誰もルシファーさんを悪く言わない」
「うん・・・私もなんとなくそれは感じた」
少々気取った感じはあるが、反乱を起こすような波動は私も感じなかった。
「そんな人が、神相手に反乱なんか起こしますかね?俺にはなんか、上のほうで取引があって、ルシファーさんが自分で、今の立ち位置を引き受けたようにしか思えない」
珍しく、インキュバスの言葉に熱がこもる。
「なんか、秘密があるんすよ、きっと」
「噂で物事を語らないほうがいいぞ、インキュバス」
冷たい刃物のように、心にすっ、と入り込む声。
ルシファーが戻ってきていた。
「あ!し、失礼しました!」
インキュバスがまた、くるりと向きを変えバタバタと駆け出していく。ルシファーの前ではよっぽど緊張すると見える。
「全く彼は変わらないな。彼の指導は君がやってるの?彼は単純だが悪い奴じゃない。僕からもよろしく頼む」
ルシファーがペコリ、と頭を下げる。
「・・・やめてください。インキュバスはよくやってくれてます。彼も悪魔部から移ってきて喜んでるし・・・」
そこまで言って、あ、と思い口を押さえる。悪魔相手にはかなり失礼な話だ。しかし、意外にもルシファーは嬉しそうに笑っていた。
「そうか。喜んでたか・・・彼みたいに悪に振り切れない奴に、悪魔部は酷だよ。そんな奴はどんどん天使部に上がらせてやりたい。適材適所ってやつだな。彼をサムエルに託してよかったよ」
「え!?」
「・・・何か?」
「インキュバスの人事って、あなたが?」
「当たり前だろう。僕は悪魔部の長ルシファーだ。悪魔部の人事は全部僕がやる」
ルシファーは涼しい顔で言うと、何か思い付いたように私をじっと見据えた。
冷たい目のなかに、すこし不安な影がゆらゆらとうごめくのが見える。
「・・・君も、僕の傷が怖いか?」
その声は許しを乞う幼子のようで、また私の心臓はどくん、と跳ねる。
「怖い・・・とは思わないです。ただ」
「ただ?」
ルシファーが聞く。すこしずつ、心が通うのがわかる。波動が溶け合っていく感じ。
もう少しで彼の心は開く。
「私はこれでも中級天使です。あなたの痛みを癒せたらいいのに、と思います。・・その傷のこと、聞きました」
「アスタルがしゃべったのか。まったくおしゃべりだな」
あの黒いドレスの女性の名前だろう。
ルシファーはため息をつきシルクハットをかぶり直して、私の手をとった。
その仕草が優雅で、つい心を奪われる。
「僕は君の名前を知りたい。・・・僕を恐れていないのなら、だが。・・・教えてくれるかな?」
「私は、アイリスです」
私とルシファーはお互いの視線を合わせる。彼は迷っている。感情の蓋を開けるかどうか。
「アイリス。いい名だね」
ルシファーのが私の髪をなでた。彼の指先は冷たかったが、なぜか不快には感じない。
「噂の真相だ。・・・僕はね、アイリス。昔は君とおなじように白い翼を持っていた。輝く純白の翼、僕にできないことなど何もなかった。・・・強かったからね。だけどあるとき、神の一人が僕の力を恐れて疎んじるようになったんだ」
パーティーが終わりに近づいているのか、周りは次々と会場の席に戻り始めた。
もう少し。
もう少し私に時間をちょうだい。
「何も・・・その、企てをしていないのにですか?」
ルシファーが寂しそうに微笑む。
「そうさ。神々に仕え、大天使たちを束ねているだけで手一杯で、悪事を目論む暇なんてあるわけない。僕の日報を見ればすぐにわかることだ。・・・いつか自分の地位に危険を及ぼすかもしれない。そんな猜疑心が、悲しいことに神々にもあるんだな。僕のミスがあったとすれば、それに気づかなかったことだよ」
自虐的な笑顔を浮かべて、彼は話続ける。
孤独の波動、裏切られた悲しみの波動が、彼の周りを蛇のようにとぐろを巻きはじめた。
「僕に反乱の容疑がかかったとき、大天使ももちろんかばってくれた。天界法廷で証言もしてくれたよ。でも神々の決定には誰も逆らえない。それが天界のルールだ。・・・僕はね、アイリス。自ら闇に落ちることにした。裁きを受ける前に、自分から天使時代の名を捨てた。そして、悪魔払いの痛みを一手に引き受けることにしたんだよ。・・・痛みを感じてるときだけは、悲しみから逃げられるからね」
真っ黒な波動が激しさを増し、激しい風が吹いた。木々がざわざわと揺れる。踏ん張らないと立っていられないほどだ。
こんなに激しい苦しみの波動は、感じたことない。怖さが私を支配する。だけどそれ以上に、なんて悲しい波動なんだろう。痛みでしか紛らわしきれない悲しみ。
私は立っているのが必死だった。
ルシファーは、私の反応に気づき、我に返ったように手のひらで波動を消す。その目からは、冷たさが消えている。ただただ、悲しそうだった。
「ああ・・君は僕の波動が見えるんだな。怖がらせてしまったね・・・ごめんよ。僕の話は忘れてくれ。君とはたしかに世界が違いすぎるな。もう会うこともないだろう」
ルシファーが背を向ける。
彼は誰よりも、他人の恐怖に敏感なのだろう。私は癒したいと言いながら、彼をさらに傷つけてしまった。
待って。
たぶん私、彼から逃げちゃいけない。
「私があなたを救うわ。必ず」
私は、気づいたらそう口に出していた。
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