見出し画像

【短編小説】ヒトリ珈琲

■バニラマカダミア~金田由紀子(45)

消える、ってどんな感じだろう。

夕食をテーブルに並べながら、ぼんやりと由紀子は考えていた。
死んでしまおう、なんて絶望感はない。痛いのも苦しいのも、いろんなところがぐちゃぐちゃになるのも嫌だ。もとからそんな勇気は持ち合わせていない。

そんなことではない。

カレンダーを見る。
赤丸のついた日はパートにでる日だ。

明日は早出で、苦手な増山さんとコンビを組まなければならない。
またあの、息を吐くにも彼女の許しを乞わないといけなくなるような雰囲気の中で、5時間を過ごさないといけないのか。

食べるだけ食べたら無言で立ち上がる息子、茶碗よりもスマホを見てる時間が多い娘。何時に帰ってくるかわからない旦那。

私が消えたら、この人たちは食事に困るだろうか。

「ちょっと~、今日ご飯炊けてないの?信じらんない」と娘は言うだろう。
「コンビニ行けばいいじゃん」と息子はすぐに外出するだろう。
旦那は、そもそも家で食べるかどうかも聞かなければ答えないのだ。何も感じないかもしれない。私の不在にも、3日くらい気づかないかもしれないな。

そんなことを考えつつぼーっとしていたら、いつの間にか娘と息子が席について箸を持っている。

いつのまに来た?
「いただきます」も聞こえなかった。
いや、言わなかったのか。

ごくっ、くちゃくちゃ。
カチャン、カチャン。

息子がぱしん、と箸を茶碗に置き、皿の上にひとつに重ねる。そして、シンクにがちゃん、と置く音がした。無言でキッチンを去る気配がする。

娘はまだ、コロッケを箸でさしたまま、スマホを見て薄く笑っている。

私は夕食の自動販売機か。

食費を浮かすために、隣町の中村屋まで自転車を漕いで。見たかった昼のドラマも今日は見れなかった。コロッケだって出来合いを買わずに、この暑い中ひたすら揚げて。

娘の大学費用のために、とパートに出たはいいが全く足りず、独身時代から貯めていた貯蓄を先週取り崩したばかりだ。

こどもの進路のために働くのは楽しい?
ひさびさの充実感?
必要とされているって実感する?

否、だ。
そんな綺麗な言葉でまとめるな。
自己犠牲は感謝されてこそ報われるってもんだ。

自分勝手な家族。
私を低く見積もる家族。

でも…そう育てたのは、私なのだろう。


消えてしまいたい。
明日のパートにだって、行きたくない。

由紀子はおもむろに立ち上がり、エコバッグに財布と携帯を入れた。
何も言わず、玄関へと向かう。

息子の新品のスパイクの横に、由紀子の薄汚れたニューバランスのスニーカーがあった。
ひもがよれよれになっていて、真ん中から裂けそうになっている。

まるで自分の人生のようだ、と思う。

買ってから何年だろう。
由紀子は、自分の物だけを単発では買わない。

きっと、息子の靴を買うときに2BYEセールかなにかで安く買ったんだろう。
スマホだって日用品だって、家族の誰かにメリットがあるときだけ自分の物も新調する。

自分を主役にしない。

由紀子はずっと、そういう風に生きてきた。

夜の闇は、むんわりと湿っていて、暑い。
でも、なんだか気持ちが華やぐようだ、と由紀子は思う。

そして、この時間に外出することは久々だと気づく。息子が中学のときは、PTAの役員会が夜にあったので月に一回はこういう夜の時間を味わえていたのだ。人付き合いは億劫だったが、行き帰りにとぼとぼと歩く夜の道は嫌いじゃなかった。

昼にこの辺を歩くと、由紀子の見たくないものばかりが目につくので避けていた道だ。

ビジネスバックを片手に颯爽と歩く女性、優雅にカフェで談笑している主婦たち。みんな生き生きとして楽しそうだ。

あんな人生があったのかも、と思う。

もう少し自分を前に出すことができたら。コミュニケーションが上手だったら。

いくつも選択肢はあったのだろう。
でも由紀子はそちらを選ばなかったし、それが家族にとっていいことだと思っていた。

夫は営業マンで、仕事にゴルフに忙しい。
なんなら由紀子より、美容に力を入れている。最近は男性用化粧品がずらりと洗面台を占領していた。

人との距離感を詰めるのがうまい夫は、内より外に気が向いている。家のことには口を出さない。
「由紀子に任せるよ」が口癖の人。
ぱっと見は優しさに見えるが、たぶんそうではない。子どもが生まれる前も、その後も仕事のことだけ考えていたい人だ。

家のことを任せられる優しい妻と、成績優秀な娘、スポーツ推薦で私立高に進学した息子は、彼のステイタスだ。

同じ役を演じてくれるなら、由紀子と他の人間が入れ替わってもいいのではないか、と思うときがある。

おそらく大きく外れては、いない。


もう、このままどこかにいってしまおうか。
財布を見ると、1万円札がある。
キャッシュカードを持ってくればよかった。
いま流行りのバーコード決済すら、由紀子はあまりやっていない。ニコニコ現金払いだ。

「金田さん、ほんと時代に逆行してますよね」
パート先で、スタッフの結婚祝いを集めるとき由紀子だけPayPayで送金できなかった。増山にその時に言われた言葉だ。
由紀子は張り付いたような笑顔を浮かべるのが精一杯だった。

増山さん。
自分が好きで仕事を抱え込んで、まわらなくなると途端にイライラしてきつい言葉を投げつけてくる人。

彼女は、由紀子が持っていないすべてを持っている。
若さ、自信。
優しい夫にかわいい盛りの子ども。
彼女は今の仕事が好きなのだろう。確かに増山さんの接客は素晴らしい。だけどそれを由紀子にも求められるのは違う、と思う。

だいたい私、キッチン志望だったのを、採用になってから回されたんだから、私に当たられるのは間違っている。

ぐるぐると考えながら、由紀子は歩く。

電車に乗ってしまえば遠くに行けるのに、切符代さえケチってしまう自分が小さく思える。


「あれ」

見かけない看板が見える。
「ヒトリ珈琲」と書いてある。
ここって、雑貨屋さんじゃなかったっけ?

夜だからか、すこし冒険心が出てきて由紀子は店を覗いてみた。

Francfrancのような、女子力高めのお店は気が引けるが、この店はウッディな雰囲気がしていいな、と思っていた。

だが雑貨というのはそれなりに値段も張る。
買えるならマグカップぐらいなものだ。だから敢えて入らないようにしていたお店。

その雑貨屋の奥に、たったひとつだけのテーブル席がこしらえており、暖かい色合いのランプが置いてあった。
懐かしい光に、吸い込まれそうになる。

見ると、若い男がちいさいカウンターの奥にぽつんと立っている。


二十代後半というところか。
丸い眼鏡に、くしゃっとしたパーマ、そして白いシャツ。
いわゆるイケメン、というよりは個性派俳優のような雰囲気だ。

由紀子と目が合うと、男の目がきらきらっと輝いた。
「いらっしゃいませ!こちらにどうぞ」
「あ、いえ私は」
「今日が開店なんです。最初のお客様だ。よかったらひと息ついていってください」
「ああ…じゃ、はい…」
由紀子はおとなしく席に座る。

落ち着いた色合いのがっしりしたテーブルは由紀子の好みだ。
傷もいくつかあるが、艶がある。
こんなテーブルが家にあれば、お茶を飲みながらゆっくりと本を読みたい。

「いいでしょう、このテーブル」
男がうっとりと言った。
「昼は僕の姉がこの店をやっているんですが、このテーブルに僕が惚れ込んでしまって」
「そう…なんですか」
「僕、ずっと東京のお店で働いてたんですが自分の店をいつか出したくてね。でもあっちはほら、いろいろと高いから大変で」
わかります、と由紀子は頷く。
「姉がこっちで雑貨屋やってるっていうから勉強のために見に来たら、もうこいつしか目に入らなくて。その日のうちに姉に頼み込んで、夜の間だけ店を出させてくれって」
「そう…なんですね」
そんなエネルギーは由紀子にはない。無謀だが、やはりうらやましい。
「あ、すみませんお喋りしちゃって。こちらメニューです」
男が恥ずかしそうに茶色のメニュー表を差し出す。

和紙のような凹凸のある紙に、古いタイプライターのような文字でメニューが印字してある。お洒落だな、と由紀子は思った。

メニューは思いがけなく多かった。

珈琲だけでなく紅茶やハーブティー、軽食類もある。
「あの、おすすめはなんですか」
由紀子は尋ねながら、こういう風に店主と会話をするのも自分には珍しいな、と思う。

いつもならメニューのなかで一番安いものを頼むことが多い。
家族と外食するときも、好きなものを頼む息子や娘の調整をするように、自分は一番安いものを頼む癖がついていた。

「よかったら、僕に見立てさせてもらえますか?」
男はくるん、と目を見開く。
「あ、はい。ぜひ」
「ありがとうございます!」

嬉々としてカウンターに入る男は、背中からも楽しんでいるのが感じられた。

この仕事が好きなんだな。
と思って、増山の顔を思い浮かべて気分が曇る。明日、店長に辞めると電話をしよう。接客が嫌いな自分がいても、店のためにもならない。

湯気が立ち上ってきて、由紀子はカウンターのほうを覗き込む。

男はガラスケースからマグカップを選んでいる。素朴なものからポップなものまでたくさんある。この中から何が私に選ばれるのだろうか。まるで通知表を受け取るような気分になってしまう。

「お待たせいたしました。バニラマカダミアです」
とん、と目の前に置かれたのは、きれいな黄色のマグカップだった。ふちに白のラインが入っている。持ち手もぷっくりとしていて手に馴染みがいい。

ふわっ、と甘い香りが由紀子を包み、思わず香りを吸い込む。
「ああ…いい香り。甘い香りの珈琲なんて久し振りです」
「いいでしょう。フレーバーは邪道、なんていう人もいるけど、僕はそうは思わない。疲れてるときはこれがいいんです。バニラにはリラックス効果がありますしね」

男はまるで見透かすようなことを言う。

「あの…私そんなに疲れて見えました?」
由紀子が尋ねると、男は慌てた。
「いや、そんなことじゃないんです。ただ…すこし元気がないように思えて。こんな時間帯に、お買い物バックも空みたいだし」

あ、と由紀子は思う。

スーパーはこの店よりも手前にしかない。
由紀子の来た方向なら、買い物後の客がこの前を通るはずである。
買い物しにきたのではないことがわかっていたのか。

「私、明日仕事を辞めようと思って」

由紀子は気づいたら話し始めていた。
「ファミレスなんですけど、ホールを回すのが苦手なんです。動きが遅いの、どんくさくて。ペアの人はすごく機敏で笑顔も完璧で、でも私にはその圧がすごくて。責められてるようで疲れちゃうんです」

男は何も言わず頷く。

「嫌な思いをして働いてるのに、子どもも夫も…なんていうか、当然みたいな感じで。私の気持ちなんて解ってくれなくて」

どうしてだろう。言葉がするすると滑り落ちてしまう。このランプのあかりのせいだろうか。

「言ってみたこと、ありますか」

男がぽつり、と言う。

「え?」
「いや、ご家族やその仕事の方に、しんどい、ツラい、って言ってみたことあるのかな、って」
「そんなこと…」
言えないじゃないですか、いい大人なのに。
なんとなく空気で伝わるもんでしょう、わざわざそれを言うなんて。それに言ったところで、きっとなにも変わらないですよ。

と勢いづいて、口をつぐむ。

「家族だって同僚だって、言葉にしないと伝わらないことってあるんじゃないかな」
男はミルクのピッチャーをとん、とテーブルに置いた。
「本当はわかってほしいのに、言ったって変わらないから言わない、というのは逆行してますよね。相手を信じてないことにもなる」

あ、と由紀子は思う。

そうか。

「どうせ言ったってムダ」と思っているのは相手を信じてないということか。伝えてだめなら諦めもつくけど、私ひとりでぐるぐる考えているだけで、相手に伝える努力をしていなかったのは、確かにそうだ。

なぜ私だけが、という思考にはまりこんでいた。
「私の言うことなんて、聞いてもらえるかどうか。いるかいないか、どうでもいいような存在ですし」
「どうでもいい?」
「ええ」
言いながら情けなくてたまらない。
「自分を大切にしてあげないと、誰も大切にはしてくれませんよ」

男はにっこりと笑う。

「いや、すみません。僕みたいな若造が偉そうなことを言いました。もしかしたら、自分の言葉なんて聞き入れてもらえない、なんて思い込みがあるのかな、って。意外と口に出したら流れが変わるってこともありますし。自分の代わりは誰もできない。人生を変えられるのは、結局自分しかいないんです」

バニラの香りが、すこし濃くなった気がした。


外に出ると、涼しい風が吹いていた。

スマホを見ると、「どうしたの?もしかして家出とか?やめてよねもう!心配するじゃない!」
と娘からLINEが入っていた。

心配、と言いながらも上からの文章が娘らしい。

いま、伝えてみよう。

「ごめんね。ママなんだか、いろいろと疲れちゃった。カフェでコーヒー飲んでた」

送信。

シュポッ、と通知の音がする。

「お母さん、どこ?迎えに行くから明るいところで待ってて」

息子からだ。

明日、増山さんにも話してみようか。ほとんど私からは話しかけたことがなかったから。

「バニラマカデミア、効いたかな」

店のほうを振り返ると、スーツ姿の男性がひとり店を覗いて、思案しているように見えた。


「がんばれ!思いきって、入っちゃえ!」
由紀子は呟いて、すこし笑った。






ピリカグランプリの賞金に充てさせていただきます。 お気持ち、ありがとうございます!