【曲からチャレンジ2024】ジュテーム?

彼のちゃんとした名前は知らない。
仲間内の愛称のようなもので、私たちはお互いを呼んだ。

他に知っているのは、背中のまるい火傷のあとと、掠れた低い声だけ。

私は、幼子の頬を撫でるようにその痕を指でなぞる。
そうするのが、彼の好きなことだから。

私だけがそれを知っていて、彼もそれを好んでいる。それだけで、あの頃はよかったのだ。

たぶん。


「今日カレーなの?嬉しいな」
彼が後ろから手を回してきて、私の肩に細い顎が触れる。
半袖から気持ちよく伸びている、きれいな白い腕が私を捕える。

彼のほうが華奢だな、とふと思う。それにひきかえ、私の腕は筋肉質で日に焼けていて、全然きれいじゃない。

かすかなコンプレックスのようなものが降ってきて、私は軽く首を振ってそれを追い払う。

仕方ない。
この生活を維持するために仕事をひとつ増やしたのだ。身体のメンテナンスも、全然していない。

ひとつにくくった髪はぱさぱさで、最後に鏡に最近向かったのはいつだろう。

でもいいのだ。
彼以外の男性に美しいと思われる必要もない。

彼がこの部屋にいてくれるなら。
「おかえり」
と言ってくれるなら、なんでもする。

「チキンとほうれん草。好きだよね」

私は振り返らずに尋ねる。
答えはわかっている。
きみの作るものは何だって好きだよ。いつものように、そう言ってくれるだろう。

「そっか、チキンなんだ」
彼の言葉に、ふと違和感を覚え振り向き、彼の腕が離れる。

最近こういうのが多い気がする。

「ごめん、飽きちゃった?前に好きっていってたから」

焦って言葉を探す私に、彼はにっこり笑う。
「チキンでいいよ、いつもありがとう」

チキンでいいよ。



今日のカレーは、すこし苦い。


彼が書く文章が好きだった。

表現が繊細で、壊れそうで、それでいて強い。手術用のメスのように、確実に私のなにかを切り取っていった。

彼の新作がタイムラインに載るたび、息をつめて読み漁った。
やがてそれだけが私の生きる意味になり、彼の作品のなかに出てくるものを買い、着て、食べた。

遠くの街まで、彼の本を買いに行った。
電車を何本乗り継いでも、手に入れたかった。それだけでよかったのに。

彼を知ってしまった。

「いつも読んでくれてありがとう」
照れ臭そうに、そう笑う彼の笑顔を見てしまった。

ピアニストのようにキーを叩くきれいな指を、もう誰の目にも触れさせたくなかった。
彼の描く女性像が、私とかけはなれていることも知っている。

私を好きになってもらおうなんて思わない。

私は彼の部屋が更新間近で、都内に拠点がほしいことも知っていたから、つい言ってしまったのだ。

私の部屋で作品を書きませんか、と。


彼はこの部屋で、たくさんの魅力的な女性を書いた。
朝も、昼も、夜も。
そしていつも夢見るように、彼女たちに恋をしていた。

私を抱きながら、彼は彼女たちを抱いた。


凛として、強くて美しいヒロインたち。
私に似ているヒロインは、そのなかにひとりもいなかった。


りんごを剥きながら、言ってみる。
彼はうさぎに剥いてあげると喜ぶのだ。


「私、実家に帰るかもしれない」

キーを打つ規則的な音が、一瞬止まる。

「…そうなんだ。いつ頃?」
「わからないけど。親がね、体調悪くしてて。帰ってこいってうるさくて」
「それは心配だね。僕のことは気にしないでいいよ。こいつがあれば、どこでも書けるから」

心臓がどくんどくん、となった。

「私が帰っても、困らない?」

彼が私を不思議そうに見る。

言わないで。
わかってはいるけど、きっと私は憎んでしまう。

「仕方ないことだと思うよ、君の部屋だしね。わがままは言えないよ。今まで本当にありがとう」

完璧な笑顔。
大好きな、彼の笑顔。

そしてまた、彼の視線はキーボードへと移る。


切なそうに、眉をひそめて。
幸せそうに、頬を上気させて。

彼女たちに恋をして。
幻想に恋をして。

私は。
私はそこにはいなくて。


私は、果物ナイフを握り直す。
ラジオから流れてくる曲を聴きながら。

うれしいぬくもりに包まれるため
いくつもの間違い重ねてる
ジュテーム?
ばかだよな

スピッツ  ジュテーム?より

2021年の今頃、こんな企画をしていました。
その頃の自分にチャレンジ!














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