見出し画像

ねがいごとが、できない

妹から、京都の鈴虫寺の、願いごとが叶うお守りをもらった。

妹は、「お姉ちゃんはもっと自分のこと優先して考えていいんだよ」って言って泣いてくれた優しい人間だ。少々エキセントリックなところもあって、私や家族を辟易とさせることも多いが、愛すべき人間。そんな彼女が、私の幸福を願ってお守りを買ってきてくれた。

妹は、私の願いが叶うように、と祈ってきてくれたとのこと。私はそのお守りで一つだけお願いごとができる。お願いごとの作法について、いろいろ説明を受けて、うんうん、ありがとね、とお守りを受け取った。

それはたしか3年前ぐらいのことだったと思う。

まだ私は、お願いごとをしていない。

私は夢を叶えたくないと思っている。夢は夢、叶わないものが夢なのだ。「見果てぬ夢」が私の思う夢であって、叶ってしまったら夢じゃない。だから、いろんな夢をお願いするわけにはいかないのである。

なりたい自分もないし、欲しいものもない。

いや、もちろんあるんだけど、わざわざ神様仏様にお願いするようなものじゃない。

私が本当に欲しいものは、朝起きたら枕元に置いてもらえるようなものじゃないのだ。自分がその欲しいものに相応しくありたい、というのが一番の願いだけど、それは、お願いして叶えてもらうものじゃない。寧ろもっと欲深いのだ。

最近、神社やお寺にお参りに行っても、「ごめんなさい。ありがとうございます。許してください」としか言えない。一生守ると決めた人から離れ、たくさんの人を傷つけて、好き勝手にしているからだ。せいぜい、罰が当たらないことをお願いするしかない。

そんなわけで、私はたぶん、ずっと幸福のお守りを持ち歩くことになるのだろうと思う。でも、姉の幸せを祈ってくれた妹の気持ちがこもったお守りは、私にとって宝物だ。人を傷つけた私でも、彼女は私の幸せを望んでくれている。

別の話だが、私はしばらく珈琲が飲めないことがあった。

あることについて考えていて、「もし、こうなってくれるのなら、毎日飲んでるコーヒーくらいがまんするのにな」とちょっと思ったら、そのときから珈琲が飲めなくなった。願掛けをしようという意識はなかったのに、結局のところ、願掛けのようになってしまった。珈琲をいれようとすると、手が震えてやっぱりやめよう、と思った。スタバには全く立ち寄れない。友達とご飯を食べに行って、いつもならデザートと一緒に珈琲を頼むのに、どうしても頼めなくて紅茶を頼む。信じる力というのは、理屈じゃないのだと思う。「フラニーとゾーイー」で、ゾーイーが、自分はご飯を食べる前に必ずお祈りをしないとダメになってしまった、もう省略しようと思ってご飯を食べ出したときもあったが、そのときは吐いてしまった、こんちくしょうめ、みたいに言ってたことを思い出す。

その後、結局、私は珈琲を飲むようになった。「もし、こうなってくれるのなら」を自分で可能性を潰した。それは願掛けするべきことではないと思ったのだ。そのときは、覚悟を決めて、泣きながら珈琲を飲んだ。吐き気さえしたけど、多分カップごと飲んだと思う。(うそ)

今はスタバにもがんがん行っている。そのことは、苦い思い出になった。(珈琲だけに。←くだらない)

つまり私はケチだから、本当の願いごとが自分で分かるまでは、神様におねだりするのをやめようという魂胆だ。

いつか自分のことが今までよりもっとわかって、自分の気持ちの本当の願いに気づいたとき、今まで出し惜しみしていた祈りのパワーを最大限発揮して、魂を込めてお願いごとしよう。

そう思うと、なんかわくわくする。

#ねがいごと #鈴虫寺 #お守り #シスコン #汝の欲するところを成せ #エッセイ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?