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自分のなかからしか出てこない

料理をしていて思うのは、食べたことのある料理や、それに近いものでないと作れない、ということだ。
どんなに丁寧に書いてあるレシピを見ても、それがどんな味か、個別の材料がどうやって構成されているかの完成形がイメージできないと、手順を真似ても料理はできない。

小説を書いていて、どんなに自分と違う性格、境遇の登場人物を客観的に書こうとしても、出会ったこともなければ、誰かの本で想像したこともないという人物については書けない。あるいは、組み合わせないと。

高校生のとき、演劇部だった。
演劇部の活動が、私の全てだった。泣いたり笑ったりのほぼ全てが、演劇部員としてだった。
授業中、寝てるか、本を読んでいなければ、大抵、脚本を書いていた。あるいは、演出プランを。
演じることよりも、脚本を書いたり、演出するほうが好きだったけれど、演技は演技で、他では味わえない快感があった。

演劇部だというと、演劇に興味がない人たちは、「それじゃ、そういうキャラも、演技なの?」と言ってくることがある。「演技が上手い=嘘をつくのが上手い」だと思われることもある。
そういう人もいるだろうが、みんなそうだと思われるのは癪に触る。

演じるというのは、自己表現だ。
違う誰かになったり、ましてや、嘘をつくこと、誰かを偽ることとは違う。詐欺師のあれは、演技ではない。騙しているだけだ。表現と違う。
憑依型、と呼ばれる俳優さんもいる。
カメレオン俳優とか。
私の大好きな山田孝之さんは、演じるとき、役に成り切るために、自己を全否定する、と言っていたことがある。セリフに納得いかないとき、納得いかないということは役になりきってないということだ、ということだから、納得いかない自分を忘れる。
けれど、演技の際に、どれだけ自分を殺して否定して隅に押しやっても、それも彼にしかできない、やはり彼の自己表現なのだ、と私は思う。

作家や俳優という「自分」が、人生を、人を、他者を、そして自分と自分の世界を、どう捉えているか、どう観察しているか、どう感じていて、どう考え、どういうものとして心に描いているかが、演技に表れる。普段、表に出さない、自分の隅に追いやっている感情や感受性を引っ張り出して、解放し、表に出すことができる人が、普段のその人とは似ても似つかない役柄を演じることができる。変身や嘘ではなく、解放なのだ。表現なのだ。

もちろん、小説の登場人物や役柄の、思考や性格や主義主張は、作家本人や俳優本人とごちゃ混ぜにしてはいけない。

けれど、やはり、世界をどう観察し、感じ取っているか、深みや広がりを知っているかあるいは感じているか、考えているか、という点で、自分の中にあるものしか、表現できないのだと思う。

ただ、それだけではないことが、表現の面白いところだ。

私は、自分が書いた脚本を自分で演じたことが何度かある。

そして、自分で言うセリフ、例えば「彼を」というセリフを「彼の」に本番中に変えて言ったことがある。

そのときの舞台の空気と、役柄に没頭した時に、これは「彼の」のほうが相応しい、と咄嗟に判断したのだ。いや、判断というより、そうすべきように感じてそうしてしまった、というのが正しいかもしれない。

そのとき、観客はどう思ったかわからない。共演者も私のセリフ変更に気づきもしなかっただろう。けれどそんなことはどうでもよかった。そのとき、私のなかで、全てが「はまった」と思った。本当にあるべきところに、あるべきセリフと、役者の感情と演技と、それらが、カチっと音を立ててはまった。そのときに、これまで自分のなかでくすぶっていた何かが解放され、成長して、新しい世界が生まれた。新しい真実が、新しい本当が生まれた。私は、そう感じた。あのときの感動は、一生忘れられないだろう。もう一度、あの感動を、あのはまった感じを、演技が演技を超えた真実になる瞬間を、もう一度感じたい。それは、演劇でなくてもあるはずなんだと思う。ずっと探してる。

あー探してる。探してる。。。


うーん。ドラマラジオの脚本書いたら、誰か演ってくれないかな。

#エッセイ #脚本書きます #自分の中にあるもの #みなさん風邪へのお気遣いありがとうございます #元演劇部

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