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チャリと自転車

田舎者だからかもしれない。私が10代の頃、周りの友達は、みんな自転車のことをチャリンコ、チャリと呼んでいた。

私は、それが言えなくて、つい自転車、と呼んでしまう。「この間、自転車に乗っててね」「ああ、チャリね」と相槌を打たれる。私は、なんだか自転車と呼ぶことが恥ずかしくなって、それから、自転車のことをチャリと呼ぶように心がけ、「じて、、チャリにさー」と言い直し、ついには、何の苦もなく、「昨日、私のチャリがね」と話せるようになった。

今から考えてみれば、随分愚かなことだけど、まぁ子供だったので。それでも、小説家になりたい、なんて真剣に思っていたのだから、先が思いやられる。

なぜ、私は自転車をチャリと呼びたかったのだろう。一つには、周りと同調したかったのだ、と思う。言葉は、世界だ。同じ言葉を使わないと、その世界にいられない。私は、自分の好きな人たちと同じ言葉を使って同じ世界にいたかった。思春期だからこそ余計に、世界からの疎外感を感じていたのかもしれない。

自転車のことをチャリと呼び続けて大人になった。あるとき、同い年の憧れている人と話をしたときに、その人が自転車の話を自転車、と言って話したのに、私は自分の口からさらりとチャリ、という言葉が出て、急いで自転車、と言い直した。

そのときに、何か不思議な気持ちになった。子供の頃の価値観、あるいは処女性の喪失?そんな大それたものではない。でも、これも一つの喪失感のようだ。

自分のお小遣いで買ってみたくて、いつもは親に車で連れていってもらうサーティワンアイスクリームに行ったときの乗り物。

夏休みに友達と少し遠くの公園まで冒険に行ったときの乗り物。

雨の日に駅に置き去りにてずぶ濡れになっていたそれ。

誰かに持ち去られたと思われたのに、ある日家の前に戻ってきていて、一家の夕飯の話題を担った、それ。

私は、自転車をチャリと呼ぶのがかっこいいと思う気持ちを、恐らく永遠に失ったのだな。

それが良いとか悪いとかではなく。
どんなものでも、喪失は痛みを伴うのだな。
じんわりとした柔らかい痛みを、すぐに消えるであろう傷口を見ながら、静かに感じる。

#エッセイ #自転車 #チャリ #喪失について #秋の日に

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