祈りってなんだ? 一無宗教者の考察
フランシスコ教皇が ローマ教皇として38年ぶりに来日し
昨日 天皇陛下と会談しました。
先日大嘗祭が終わったばかりの天皇陛下と
長崎や広島で祈りを捧げて来た教皇のツーショット。
興味深いものでした。
でも、この二つの「祈り」は、全く性質が違うもので、
天皇の祈りが「自然」に対して五穀豊穣を祈るという
農耕民族特有のものであったのに対し、
キリスト教の「祈り」の根本は
「迫害された民族の救済のための祈り」であるように思います。
何故キリスト教は二千年もの間続いているのか知りたくて、
いろいろ本を読んでみました。
どの宗教も信仰していないので、自分だけの目で探りたかった。
でも、聖書はなんだかチンプンカンプン(/・ω・)/
そこで、犬養道子さんの 「新約聖書物語」と
テイラー・コールドウェルという人の「パウロ、神のライオン」
という本を中心に色々、
あとは 劇団四季の「ジーザス・クライスト・スーパースター」
なんかも観てみました。
一番の疑問は
「キリストは何故逃げなかったのか?」ということです。
遠くに逃げればよかったのに、わざわざ捕まりに帰るなんて。
ゲッセマネで死ぬほど怯えて、それでもエルサレムに帰ったのは
父であるとする神への信頼なのでしょう。
そして もう一つの考えが、フランシスコ教皇もよく口にする
「神の道具」という文言。
神を信じ神の道具になる、ということなのでしょうか。
何故そこまで神を信じるのか。
それは「神は我々を愛してくださる」という信仰で
そこがキリスト教の一番のポイントであると思います。
神は強い人も弱者も、
正しい人も罪人も同じように愛する。
だから我々も、敵を愛し、
右の頬を打たれたら左も差し出し、そして
打ったあなたを兄弟として愛し、憐れみ、赦します、
ということなのでしょう。
キリストはそれを身をもって証明した、ということらしいです。
理屈としては分かるけど
暴力的で聴く耳を持たない人には笑止千万なんだろうなあ(;´・ω・)
しかしキリスト教はその後ローマ帝国を席捲し、
二千年かけてカソリック教会は組織を大きくしました。
現在バチカンは一定の権力を持つことになります。
国際社会にとって教皇の発言は無視できないものとなりました。
今回の教皇の来日は
祈りもさることながら、その発言力を駆使し
核廃絶のための法整備を訴える、ということだったようです。
とは言え、教皇が長崎の爆心地で祈る敬虔な姿は
多くの人の感動を呼んだことと思われます。
教皇が幼子にくちづけをして祝福する。
その姿を見て皆は喜びに満たされる。
人間社会はかくあるべしと感じる。
祈り とは 一種の愛情表現なのではないでしょうか。
世界の混沌が愛で解決するとは夢にも思いませんが
そこに 仏陀における 智慧と慈悲 が加わったら
何かしら次なるヒントが見つかるでしょうか?
我々日本人は、教皇の望みどおり、
被爆国として核廃絶の一助となれるのでしょうか?