「書けないとき、公開ボタンが押せないとき」の考え方
noteで何かを書くのが好きだ。
頭の中の思考や考えを文字にする時間は、至福の時間。楽しい。ザザーと白紙に自由に文字を並べて創るエッセイは、普段の仕事の執筆と違い、絵を描く感覚と近い気もする。
だけど、いざ「公開ボタン」を押そうとすると
「自分が書こうとすることは、既に誰かが同じようなことを言っているしなぁ」
「当たり前のことを言っているだけでは」
「独自の視点が足りないかも」
と、ときに批判家の自分が顔を出し、頭の中でダメ出ししてくるときがある。
そして、それに屈した私は、そっと「下書き保存」して、更新を先送りするのだ。
世界に公開されることのないnoteの下書き記事が、今見るとたくさんある。
「なぜだろう?」と考えたとき「職業:ライター」の自分が、ときに書くハードルをグンと上げていることに気づく。
そんなとき、現在学んでいる「ストーリーカレッジ」の講師(脚本家)永妻先生の言葉に最近ハッとした。
「ストーリー(文章)は、世に出してみないとわからない。おもしろいか、そうでないかを決めるのは観客(読者)です。まずは世に出してみましょう」と。
確かに、自分が世に出す前に勝手に判断していたなぁとハッとした。もちろん、ある程度の客観性は大切だけど。
「書くこと」に慣れているからこそ、ときに可能性を狭めていることもあるのだろうなぁ。
現にnoteでもXでも、なぜか「リラックスして書いたもの」「頭にフッと浮かんだ言葉」が読まれることが「私の場合」は多い。構成をがっちり作って書いたものより、ゴロゴロしながらスマホで打つ文章が思いのほか読まれることも。
「え、なぜこれが?」と首を傾げるものが反応が多いという経験は、皆一度はあるのではないだろうか。
わたしなりに考えて感じるのは、「その人らしさ」が全開のものが人に届くのかもしれない。その人が見えるもの。本当の想いなんだなぁと感じるもの。
文章に限らず、絵でも音楽でも発信するものは。
もちろん、戦略も意図も計画もある程度は大切だ。クライアントワークの場合は欠かせない。
でも、自由に書いていい文章の場合、知識が増えれば増えるほど、もしかすると可能性や視野が狭くなることもあるのかもしれない。書く文章の特徴や読者さんによって、好まれるものや求められるものは違うから。
そんな視点を忘れずに、今年はさまざまな文章をもっと気軽にnoteで発信していきたいな。
そうして世にいろいろと出していくと、次第に「自分ならではの文章(または、絵や音楽など)の強み」が見えてきそうだ。
まず趣味の分野で何かを続けたいとき、やってみるときは「リラックス」「楽しさ」を意識してみるといいと思う。気軽に「おもしろいかもー」と自分がハマってやってみること。
楽しいは続く。多分、自然に伝わる。続けると、ときどきおもしろいことが起こるから。