人生2度目の自動車学校で、オートマ車の脅威と人間の退化を感じた話
オートマ車こわっ!!
と最初の実車で感じた。自動車を動かすことがこんなにも簡単で、そして、難しいものだったのかと今、改めて実感している。
住所変更忘れにより、自動車免許を失効して9年経った今、人生2度目の自動車学校に通っている。今回はオートマ車限定コースを選んだ。大は小を兼ねるとの考えで、前回はミッション車で免許取得した。取得後はミッション車にもオートマ車にも乗っていた。今回は運転ブランクがあること、できるだけお金をかけずに、確実、最短で免許を取りたいとの思いからオートマ車を選んだ。この選択が、わたしが自動車と人との関係について考えるきっかけとなった。
22年前、自動車学校に通った際には、座席に腰をおろし、左足でクラッチ、右足はブレーキ、アクセル、左手はギア、右手はハンドル、と全身フル回転で車を動かすことを学んだ。人間の操縦により、巨大な塊を徐々にギアチェンジしながら動かしていく感じが楽しかったのを覚えている。車の運転は楽しかった。目的地に向かうために、自分の身体を意思通りに動かし、ギアチェンジのタイミングやつなぎ、クラッチからアクセルまでのつなぎなど、人力の見せ所が多々ある。
これから年を重ねても、ミッション車が運転できれば、ボケない自信がある。それくらい、ミッション車は、身体のあちらこちらを使っていた記憶がある。
なぜ、自動車の自動化が進められていくのだろうか? 自動化は必要なのか?
この問いは、自動車だけではなく全ての自動化の流れにも通ずるものかもしれない。自動化によって、人間の運転技術や身体能力によらず、自動車が動かせるようになっていく。むしろ、運転という行為に人間が必要なくなる未来もくるのだろう。自動化によって、たくさんの人が自動車を運転できるようになり、利便性が上がる、生活の質が上がるなどがあるのだろう。自動化の良い面も沢山あるのだが、約10年ぶりに運転したオートマ車は、あまりに進化していてカルチャーショックを受けた。ハンドル軽いし、アクセルもブレーキも軽い。ちょっとのアクションでスイスイ車が進む。自動化が進む自動車を、運転する人間自身は、どんどん退化していくのではないかと感じた。
そんなことを書いていたら山口さんのtweetを見つけた。
自動化やテクノロジーの進化は、人間の能力を退化させていくのではないか。
いとも簡単に動かせる自動車の操作ミスによって、大規模な事故が起き、命が失われる。近年、高齢者による自動車事故では、アクセルとブレーキの踏み間違いが原因とされる事故が多い。高齢者に限らず、アクセルとブレーキの踏み間違いは誰にでもある。しかし、間違った後の対応に年齢差が出るそうだ。高齢者では、操作を間違ったことでパニックとなり、正しい対応ができずに、さらに事故が大きくなってしまうことが多いと先生が教えてくれた。だから、70歳〜74歳までの方が免許更新する際には、高齢者講習が必須になったそうだ。講習を行う自動車学校側で、運転が危ういと感じても、免許を取り上げることができない。最終的には、医師の判断になるとのことだ。しかし、実際のところ、医師との診てもらう方の癒着関係も存在するのではないかと話していた。
実車しながら思うことがある。アクセルとブレーキを踏み間違えた高齢者がパニックに陥ったとき、もし運転していた車がミッション車であれば、どうだろう。テンパったところで、エンジンストップとなり、車体は止まるのではないか。アクセルを踏んだまま交差点に突っ込むとか、コンビニに突っ込むとか、人を跳ねてしまうとか、車が動き回ってしまうことで起きる、悲惨な事態は避けられるのではないか。これはわたしの勝手な妄想に過ぎないのだが。
今世界で生産される自動車の99%はオートマ車だ。オートマ車だからこそ、自動機能がたくさん付いて、安心して運転ができるという側面もあるだろう。しかし、自動化するならば、エンジンとアクセルを踏み間違えた時の対応も自動化して欲しい。すでに、そこの装備も進んでいるそうだが、悲しい事故が後を絶たないことが悔しい。人間が身体を使って自動車を動かす技術が不要になってきた今、どんどん自動化していく自動車を、うまく制御する技術が必要になってきている。
自分の手足で車体を動かすよりも、ワンアクションで機械を制御していくことは簡単に感じる。ただ、そのワンアクションの影響力を鑑みると、アクセルを踏込む一歩の重みが増していることを忘れてはいけない。セダンの教習車でも、全長4.4メートル、車幅1.7メートルにも及ぶ。どんなに小柄な人であっても、この巨大な車体を、いとも簡単に動かすことができるのだから。
これが自動車を運転するということなのだ。
上手に自動車を運転できるようになって、娘とドライブに行くことが、今の目標だ。