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禅の道(86)観念に囚われないこと

自由な心で真実を見つめる大切さ

おはようございます。今日は全国的に快晴になるとの予報ですが、朝はぐっと冷えこんでいます。体調に気をつけながら、今日も一日を大切に過ごしていきましょう。さて、今回のテーマは「観念に囚われない」です。仏教の教えから、釈尊が説かれた例え話をご紹介します。


釈尊の例え話

ある若い行商人が、旅から帰宅すると、家が盗賊によって焼き払われていました。焼け落ちた家の外には、焼け焦げた小さな遺体があり、男はそれを愛する息子だと思い込みます。
男は深く悲しみ、遺体を荼毘に付しました。幼い息子を溺愛していた男にとって、息子は生きがいそのものでした。そのため、遺灰を小さなビロード袋に入れて、どこへ行くにも手放さず持ち歩くようになります。

ところが、ある晩、男の建て直した家の扉を深夜に叩く音がしました。叩いているのは、なんと盗賊の手から逃れて帰ってきた本当の息子でした。
しかし、男は「私の息子は三か月前に亡くなった。その遺灰がここにあるのだから、おまえは息子ではない」と言って、息子の呼びかけを拒み続けます。扉の外の少年は何度も必死に父親に呼びかけましたが、男は自分が抱えている遺灰こそ“真実”だと信じ込んでいたのです。やがて息子はあきらめ、元来た道を戻っていきました。父親は、文字通り「永遠に」息子を失ってしまったのです。


盲信・狂信がもたらす苦しみ

釈尊は、この例え話を通して「ある観念にとらわれ、真実だと固く信じ込んでしまうと、真に大切なことを見失う」ということを教えられています。
私たちが盲信・狂信してしまうとき、不寛容な態度を取りがちになります。自分の考えにそぐわない人や出来事を排除しようとしてしまい、その結果、苦しみを生み出し、周りの人々を傷つけてしまうのです。


教義やイデオロギーを盲信しない

この考え方は、どのような教義や理論、イデオロギーに対しても当てはまります。たとえそれが仏教の教えであっても、釈尊の言葉そのものであっても、私たちが盲目的に信じ込んでしまったら、そこに柔軟性や広い視野は生まれません。
大切なのは、その教えを実際の生活の中で検証し、実践を重ね、自分自身の理解と慈悲を深めていくことです。仏教はあくまで「実践のガイドライン」です。私たちは束縛されるのではなく、そこから自由に学びとることが大切です。


観念に囚われない「練修」

自由な心を保つための修行(練修)の第一歩は、「観念や概念にとらわれないこと」です。固定観念や先入観を抱えたままでは、真実を見落としてしまうばかりか、自分も苦しみ、さらには大切な周りの人まで苦しめてしまう結果にもなります。
「私の考えこそが正しい」と頭ごなしに思い込み続けると、ちょうど例え話の父親が息子を永遠に失ってしまったように、私たちは本来あるべき善い関係や真実から遠ざかってしまいます。


まとめ

  • 盲信は真実を見失う原因となる

  • どんな教義や理論でも“絶対”ではない

  • 実践の中で理解と慈悲を深めることが大切

  • 自由な心で物事を見つめる第一歩は、固定観念から解き放たれること

観念や概念に囚われずに生きるということは、一見難しいようでいて、日々の暮らしの中でも心がけ次第で実践できます。「もしかしたら違うのではないか」「まだ他に見方があるのではないか」と柔軟に考えるクセをつけるのです。すると、思わぬところから新しい発見や大切な真実が見えてくるかもしれません。

今日はお天気も良いので、空を見上げながら少し深呼吸してみてください。頭の中のこわばった観念を手放すきっかけになるかもしれません。観念に囚われない自由な心で、健やかに一日をお過ごしください。

とらわれない、かたよらない、こだわらない


ご覧いただき有難うございます。
念水庵 正道


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