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禅の道(92)車窓から感じる「無常」
今ここを生きるということ
昨日、福島県いわき市にある「佐波古の湯」に浸かってきました。ほんのりと香る硫黄の匂いに包まれながら、湯量日本一を誇るという温泉を存分に堪能。新幹線や特急電車を乗り継ぎ、まるで“旅人”のような気分でした。車窓の景色を眺めていると、時が流れているのか、あるいは景色が流れているのか、どこか不思議な感覚にとらわれます。
しかし、私たちはつい「時間が流れている」「景色が走り去っていく」と考えがちです。でも実は、過去から現在、未来へと流れている“時間”というのは、人間が前後をつなげて考えた観念にすぎません。いわば、“時間”もまた人の頭の中にある概念に過ぎないのです。
無常とは何か
仏教には「無常(むじょう)」という重要な教えがあります。これは「常住不変のものは何一つない」ということ。すべてが移り変わっていく、絶えず変化していく――それが無常です。一見すると、どこか儚さや寂しさを感じさせるようですが、この無常のとらえ方こそが苦しみから自由になる大切な鍵でもあります。(無情ではありません、無常です)
人は、過去に起きたことに囚われて「こうすればよかった」「ああ言えばよかった」と悔やんだり、まだ見ぬ未来を思い煩って「この先どうしよう」と不安になったりしがちです。しかし、それらはすべて“過去・未来”という概念に自分を縛り付けた結果ともいえます。
観念を捨てて「今ここ」にいる
「無常」を理解するうえで大切なのは、過去や未来への囚われから離れ、今この瞬間に気持ちを置くことです。言葉で言うのは簡単ですが、実践するのは簡単ではありません。けれども、たとえば電車に揺られながら窓の外をぼんやり眺めているとき、ふと「自分は今ここにいる」と気づく瞬間が訪れるかもしれません。
前後を裁断する
過去を悔やんでも、未来を心配しても、どちらも“今”を生きることにはなりません。過去や未来といった概念をいったん捨ててみる。すると、「あの人がこう言った」「あのときこうしておけばよかった」といった思いが薄れていきます。そこにあるのは、ただ「今、呼吸をしている自分」です。一瞬一瞬を捉える
仮に歩いていても、走っていても、立ち止まっていても、座っていても、横になっていても――すべては一瞬一瞬の積み重ねです。今という瞬間をしっかり感じること。それこそが、無常を受け容れるための一つの方法です。
温泉で感じた「今ここ」
旅館に到着し、温泉に身を浸してみると、さらに「無常」を感じることができました。湯の温かさや匂い、肌に触れる感触に集中していると、過去や未来のことは自然と遠ざかります。絶えず移り変わっている身体の状態、湯の温度、浴室の空気――その一つひとつが「常に変化している」ことに気づかされるのです。
「無常」は決して悲しいことばかりを意味しません。どんなつらい気持ちも、いつかは変わっていく。逆に、楽しいこともいつまでも続くわけではありません。そう考えると、一瞬一瞬がどれほど貴重なものかをより実感できるのではないでしょうか。
おわりに
窓越しの景色や温泉に浸るひとときから、私は「無常」を改めて感じました。結局のところ、私たちが本当に生きられるのは“今ここ”だけです。過去や未来といった観念は、どうしても私たちを悩ませたり、縛りつけたりしがちですが、それらを手放し、今この瞬間にすべてを賭けてみること。そこには、おおらかな自由や静かな安らぎが広がっています。
私たちは皆、いつでも「旅人」のように旅をしています。時が運んでくれるのではなく、自分自身が今という一瞬を生きながら、結果として「旅」をしているのかもしれません。どうか皆さんも、車窓から流れゆく景色や温泉でのくつろぎの中で、この「今ここ」をじっくり味わってみてください。心がふっと軽くなる瞬間が、きっと訪れるはずです。
列車の音、諸行無常の響きあり。
ご覧いただき有難うございます。
念水庵 正道