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禅の道(68)禅師様の本を紐解いて
今日そうじをしておりましたら、亡き禅師様の本が出てまいりまして、およそ年末とは思えないような好天に恵まれて、庭を散策して、池をながめながら、ゴミを燃やしながら、ふと、今日はこれを書こうと思い至りました。何気ない歳末のひとときに、懐かしい禅師様の声が届きました。
坐禅とは何か?
「頭で考えている間は迷いだ。観念の仏法だ。世の中はみんな頭で考えておる。体でしない。しかし、頭でなんぼ立派なことを考えても、口で言っても、実行しなくては何の意味もない。道元禅師様までは仏法を伝えた。けれどもいくら口で説いても、それは解釈にすぎない。それを実行して見せたのが坐禅。だから道元禅師様は、仏道を伝えたんだ。すべてが道でなくてはならない。剣術ではなくて、剣道でなくてはいけない。剣術であったり、柔術であってはならない。術は手先だ。道は体で実行するということだ。だから、道元禅師様は体で仏法を伝えたんだ。道元禅師様は『只管打坐』と仰った。それは、ただ坐るということや」
あらためて、亡き禅師様(永平寺78世貫主宮崎亦保禅師)の声を聴いて、本とは有り難いものだと思いました。まるでこの坐禅堂でお話されているような生の声が響いてくるんですね。それは動画でもなく、写真でもありません。本を読みながら禅師様が目の前で話しておられるのです。
私は、禅師様との出会いがなければ、いままで仏道を歩んではいなかったことでしょう。正月のある日、福井新聞で年頭のあいさつが述べられておりました。そこには次のような一節が載っておりました。今でも鮮明に覚えております。これが「禅の道」の原点でありました。
「信火内にあれば行煙外に顕わる」
この仏語をもとに、黙って真実を実行するという坐禅の功徳を端的に述べられた年頭挨拶に深く心が動きました。私は何としても禅師様にお会いしたいと望み、今の師匠を通じて永平寺で在家のままで「得度」して戴きました。それは、今生での最大の出会いであったと今でも確信しております。
それから出家し、今の自分があります。けれども「初心の弁道」すなわち始めたばかりの坐禅の日々こそが、仏道の全部であることを今も実感しております。それは仏道を歩むということは、結局「毎日坐禅する」ということに他なりません。毎日たとえ5分でも善いから続けることです。
「坐禅ということは、真っ直ぐということや。体を真っ直ぐにしたら、心も真っ直ぐになる。自分が真っ直ぐになったならば、環境を真っ直ぐにしなくてはならない。そういう勇気が坐禅だ」
「真理を黙って実行するというのが、大自然だ。誰に褒められたくも思わんし、これだけのことをしたら、これだけの報酬がもらえるということもない。時が来たならば、ちゃんと花が咲き、そして褒められても、褒められんでも、すべきことをして、黙って去っていく。そういうのが実行であり、教えであり、真理だ」
宮崎禅師108歳の生涯を簡潔に著した「坐禅をすれば善き人となる」という石川昌孝氏の著書があります。読み返すたびに新たな気づきがあり、深い洞察を得ております。黙照天心禅師。こんなに簡単にわかりやすく坐禅を伝えられた方は他に知りません。文字通り、私の禅の師であります。
毎日坐禅する。
ご覧いただき有難うございます。
念水庵
にゃんすいあん日記38日目
いずれ外に出してあげたいと思った。
小春日和。
春になればそれもいいだろう。
犬は人につき、猫は家につく、という。
帰ってこないときは黙って戸を開けておく。
お腹が空けば帰ってくるものだ。
ただ、交通事故だけは気がかりである。
室内飼いが大原則だ。
私には悲しい経験がある。
飼っていたチャムという子がいなくなった。
あくる日近所の方から県道で死んでいる猫をみたとの知らせ。
急ぎ県道に出るとはたして、、、涙
血だらけのチャムの死骸を抱きかかえて
私は大泣きして家に戻った。
庭の一角に埋葬した。
無常というほかない。
今日は写真も動画も載せません。
チャムの冥福を祈りつつ、合掌。。。