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禅の道(114)ブッダの涙
ブッダの涙――涅槃会に思う
ブッダ(釈尊)といえば、悟りを開いた聖人としての厳かで揺るぎないお姿を思い浮かべる方が多いかもしれません。しかし、ブッダは一人の人間として生まれ、悩みや苦しみを抱えながらも、それを乗り越え悟りへと至られた方なのです。いわば私たちと同じように感情を持ち、家族を想い、大切なものを手放す痛みを知る――そうした“血の通った”人間だったからこそ、多くの人々の心に深く響き、その教えが時代を超えて生き続けているのでしょう。
王子として将来を嘱望されていた若き日のブッダ。ある夜、深い決意とともに出家を決められました。そのとき、寝入る妻と息子の寝顔を見つめる姿を想像してみてください。父として夫として、どれほど胸が苦しかったことでしょう。「どれだけ一緒にいたいと願っても、自分が悟りを求める道を歩むために、今ここを去らなくてはならない」。その思いが、ブッダの頬を一粒の涙とともに流れ落ちたとしても、不思議ではありません。
出家後は、厳しい修行を重ねる苦難の日々が続きました。心身を極限まで追い込み、ついに悟りを開かれたブッダは、以後、たくさんの人々の悩みに寄り添い、導き続けました。ですが、その生涯を振り返ると、決して超人的な力で奇跡を起こすような存在ではなかったのです。人間として生まれ、病に倒れ、80歳で静かに最期を迎えました。その最期のときこそ「涅槃(ねはん)に入られた」とされますが、そこには畏怖を覚えるほどの神秘と、同時に私たちと同じ“終わりを迎える存在”としての姿もありました。
悟りを得ること。それは決して「感情を持たない」状態に至るのではなく、人生の苦しみや悲しみを十分に知ったうえで、それを受け止め、超えていく道だといえるのかもしれません。ブッダは涙を流さない超人ではなく、私たちと同じ身体とこころを持ちながら、限りない慈しみと智慧を得た一人の人間だったのです。
涅槃とは「煩悩の火が吹き消された状態」とよく言われますが、それは同時に、真摯に生き抜き、最後には“全てを手放す”という行為でもあるのでしょう。今日が涅槃の日であることを思い出すたびに、ブッダが辿った苦しみと悲しみ、人としての弱さと強さに想いをはせたいものです。その一滴の涙は、きっと愛する人々への想いと、自らの覚悟が交錯した証だったのではないでしょうか。
私たちが生きるうえでも、時に大切な何かを手放す選択を迫られることがあります。そんなとき、ブッダが流したかもしれない涙は、単なる悲しみだけではなく、“より大きな理解と compassion(慈しみ)の旅路へ踏み出す第一歩”の印だったのだと、思いを馳せてみるのはいかがでしょう。悟りへの道を歩むことは、私たち自身が自分の弱さや痛みを知り、そこから逃げずに真剣に向き合うこと。そうしてこそ、私たちは本当の意味で他者を慈しむ心を育てることができるのだと思います。
ブッダの物語を改めて思い返しながら、涅槃の日という節目に、私たちもまた自分の中にある悲しみや葛藤、そして隠れている優しさと希望を見つめ直してみたいものです。それこそが、ブッダの教えを生きたままの姿で受け取り、日々の暮らしに生かしていく道なのではないでしょうか。
人間だから。
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念水庵 正道
今は亡きひとへの「返信」
この歌を聴くたびに…