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禅の道(34)祈りの本質
「祈り」の本質を考える ~禅の道における心構え~
病気やけがで家族や友人が入院しているとき、看病やお見舞いに向かう私たちの心は、祈りの中にあります。祈りとは単に神仏に願いを届ける行為ではなく、深い洞察を伴う内なる姿勢です。ここではブッダのエピソードや先人の言葉を紐解きながら、「禅の道」における祈りと、その心構えについて考えてみます。
◆ ブッダのエピソード:思いやりと祈り
ブッダの教えの中に、「慈悲(メッタ)」という重要な教えがあります。あるとき、ブッダは病に伏した僧侶を弟子たちが放置していた場面に出会いました。ブッダは彼を自ら看病し、こう語りました。
「病人の看護をする者は、私の看護をするのと同じである。」
この言葉は、他者を思いやる心が祈りそのものであることを示しています。ただ願うだけではなく、自ら行動に移すこと。たとえば病床の友人や家族に寄り添うこと、声をかけること、または静かに側にいることは、祈りの一形態です。
◆ 禅における「祈り」とは
禅では、祈りは内なる調和を生む行為と捉えられます。祈りとは、相手の健康や幸福を願う純粋な心の動きですが、その根底には「無私」の姿勢があります。「相手のために祈る」と言いつつ、実は自分の安心を求めているだけにならないために、禅では以下のような考え方を重視します。
「今ここ」に集中する
自分ができる行為に全力を注ぐ。お見舞いに行く際には、ただそこにいること、相手を温かく見守ることを実践する。見返りを求めない
「祈り」は見返りのない行為です。病気が治る、回復することを願いつつも、その結果に執着しない。結果は「天」に任せる姿勢が大切です。
◆ 祈りの本質を深めるための方法
相手のために静かに坐る
坐禅の姿勢で、心を静め、病床の相手の健康を願います。このとき、心の中で「どうか楽になりますように」とシンプルな言葉を繰り返すことも効果的です。呼吸に意識を向ける
祈るとき、呼吸に意識を向けることで自分の心を安定させます。穏やかな呼吸は、相手にも伝わるものです。心の中で「慈悲の瞑想」を行う
自分に向けて「私が健康で幸せでありますように」と念じた後、相手に対して同じ言葉を送りましょう。これは心の平安を育む効果があります。
◆ 先人の言葉から学ぶ祈りの姿勢
道元禅師は「全ての存在は互いに響き合う」と説かれました。病気やけがを抱える人と自分は別ではありません。その痛みや不安を、自分のこととして捉え、共に歩む心が祈りの本質に通じます。
また、良寛禅師は「他人の悲しみを知ることこそ喜びである」と述べられています。この言葉は、看病やお見舞いを「つらい仕事」と捉えるのではなく、「祈りの場」として積極的に関わることの大切さを教えてくれます。
◆ 禅的な祈りを実践する心構え
「相手のために祈る」ではなく、「共に生きるために祈る」。祈りの中で、他者と一体であることを感じます。
「自分が祈らなければ」ではなく、「今、自分ができることに注力する」。その具体的な行動が祈りの形となるのです。
「思い煩う」よりも「手を合わせる」。煩悩を手放し、静かに祈る時間を大切にしましょう。
◆ 結びに
「祈り」とは、特別な儀式や形のある行為だけではなく、他者に対する思いやりのすべてが祈りの一部です。禅の道における祈りは、相手と自分の心が響き合う瞬間を育むものです。その心構えを持って、日常の行動に変化をもたらしたいと思います。
「便りのないのは元気な証拠」とばかり思っていましたら、知人を通じて連絡がありました。「入院されている」と聞いて、驚きとともに反省しきりでした。もっとも自分にできることは少ないのですが、こんなときにどういう心構えで過ごしたらよいか、祈ることしかできないものかと…
きょうの記事は自分のために起こしました。暁天坐禅そして朝課を終えてから、さらに坐禅しました。私にできる「祈り」は読経ではなく、坐禅であります。参禅堂でともに坐ったときのことなど、なんども頭に浮かんできましたが、必死になって頭燃をはらいました。
ご覧いただき有難うございます。
念水庵
にゃんすいあん日記。ここ&ビリー、三日目。
ビリーと遊ぼうとすると、ここが邪魔してくる。
にゃんたちの性格は、おとなしい女の子とわんぱく坊主。
動画みていただければ明確です笑
健康第一、安全第一。
この子たちのためにも、安全運転そして身体を動かす誓い。
祈りの大前提。。。