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禅の道(58)言葉をこえた悟り

質素の中に見出す禅の真髄

禅の道において、しばしば古の仏祖や祖師方の言葉が引用されます。それらは確かに偉大な指針ですが、それらをまるで自らの悟りのごとく語ることが、果たして真の修行と言えるでしょうか。禅とは書物や語録を通じて理解するものではなく、自らの身体と心を通じて体解たいげするものです。

私は日々坐禅を続ける中で、次第に気づいたことがあります。それは、坐禅そのものが生活の一部であり、生活そのものが禅であるということです。たとえば朝、湯を沸かして茶を淹れる。その単純な行為の中にこそ、禅の真髄があるのです。

言葉を超えた悟り

坐禅の中で得られる気づきは、言葉では到底説明しきれないものです。それは瞬間的でありながらも深遠で、どんなに巧みな比喩や引用を用いても、その本質を完全に伝えることはできません。逆に言えば、言葉に頼らずとも、その気づきは生活の中に自然と現れてきます。

私自身の経験を語るならば、土を起こし、水を引き、草を刈り、作業に汗をかく、その時間が最も純粋な禅の時間です。土の香りや水の音を感じながら身体を動かすとき、私は「いまここ」に全力で生きている感覚を得ます。その感覚は、ただ坐るだけの坐禅と同じくらい尊いものです。

質素な生活の中の真理

現代の生活は複雑で、何かと余計なものが多いように感じます。しかし、禅の教えは本来、質素で無駄のない暮らしを基盤にしています。たとえば、物が少ない部屋で過ごす時間は、自然と心を静めてくれます。そして、その静けさの中に真理が宿るのです。

ある日、私は何も敷かずに床の上で眠ってみました。その朝の目覚めは驚くほど清々しいものでした。この経験を通じて、私たちは時に"快適さ"や"便利さ"を追い求めすぎていることに気づかされます。禅の道は、こうした無駄をそぎ落とす勇気と、その先にある本当の豊かさを見つける道なのです。

禅僧としての生活の選択

私が目指すのは、特別な言葉や行いではなく、日々の中で真理を生きることです。坐禅し、茶を飲み、汗を流し、猫を撫でる。それが私の禅です。生活を大切にすることで初めて、私たちは禅の真実に近づくことができるのではないでしょうか。

禅の道に華やかな装飾はいりません。必要なのは、ただ純粋に、ど真剣に、目の前の一瞬を生きることだけです。その覚悟があるならば、質素な日常がそのまま悟りの世界となるでしょう。他の人びとの悟りを努々ゆめゆめ吾がものと勘違いすることがありませんように。

体解大道


ご覧いただき有難うございます。
念水庵 正道

にゃんすいあん日記28日目

にゃんたちは、追いかけっこと取っ組み合いがしごとだ。
そうやって成長していく。
私が撫でると、ごろごろと反応する。
爪切りは大嫌いだが、ブラッシングは大好き。

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