見出し画像

他人は鏡だと言うけれど

昨日仕事へ向かう途中、街中で核兵器禁止の署名活動と遭遇しました。

見た感じ戦争を体験したであろう世代の方々を中心に目視で20人くらい。四方に散らばり1人1人声をかける方。横断幕を持った人達。その横で1人拡声器で呼び掛けてる方。

スピーチは流暢ではなかったものの、辿々しさが逆に用意した言葉だけではない印象を受けました。

私は仕事に遅れそうだったので、「急いでるのですいません」と署名を断りその一団を通り過ぎた後、少し先の信号待ちで背後から聞こえてくる声にソワソワしていました。

街灯での署名活動や募金運動、選挙演説やストリートライブなどは大半の人が素通りで、私はその光景がいつも心苦しくて悲しい気持ちになります。

これはマッチ売りの少女理論で、一生懸命頑張ってるのに無視されてる人を応援したくなる心理が働いてるのかもしれません。

構造的にも活動してる人と街中を行き交う人では圧倒的に後者がマジョリティになるので、少ない方に感情移入するのは当然と言えば当然な気もします。

ただこうして執筆の題材にするくらいソワソワが尾を引くのは、自身の琴線に触れる何があるからだと思います。

これは推測ですが、恐らく無視されてる様が自身のコンプレックスと重なってるのかもしれません。

と言うのも先ほど例に挙げなかった街灯でのティッシュ配りにも同じ感覚になるからです。

先述した例は自身の想いや趣味など個人的な活動であったのに対して、ティッシュ配りは明らかに仕事です。

仕事はあくまでも仕事なので、そこに個人の強い想いがあるのは稀ですし、上手くいかなくてもある程度割り切れるものだと捉えています。

つまりティッシュ配りを断られても"仕事してる人"でしかないはずなのに、少し心がざわつくのは、無視をされてること自体が琴線に触れてるのだと推測しました。

そこに個人の想いが重なれば、よりそれに応えないあるいは応えられないことにソワソワするのは納得できます。

この無視されるを言い換えると透明人間が近い表現です。

私自身、いるのにいないみたいな腫れ物扱いが多かったので、昔の自分を見てるような感じがして手を差し伸べたくなります。

元々のコンプレックスは親が私を子供としてしか見てなかったことが始まりで、家族憧れが強い母はいつも、家族だから…親子だから…という前置きで声をかけてきました。

私の言動は全て否定するのに、周囲の大人達も皆「親は子供が心配だから愛情の裏返しだよ」的な丸め方で美談しようしてきて、自分の存在が全く感じられない時期がありました。

簡単に例えると、「男(女)なら誰でもいいから付き合った」と恋人に言われたら悲しいでしょう。「それって自分じゃなくてもいいってことじゃん」と感じたら誰だっていい気はしないはずです。

でも基本的に世の中はお互いがお互いを透明人間にしていて、それを見つけてくれる人は圧倒的に少ないです。

他人は鏡とよく言いますが、人にされたからそうするではなくて、自分がしたからそれが返ってくると思った方がいい循環が生まれると気がします。

だからなるべく透明人間にしないようにとは思っているんですが、ふとした瞬間に今やっちゃったなと悔やむことが多いです。

昨日の署名活動も無視した訳ではないけどまだ少し引っかかってるのは、透明人間にしちゃったかなと、見て見ぬふりをしてしまった負目があるんだと思います。

こういうちょっとしたことって徐々に薄れて忘れてしまって、あるとき急に「あのときもあのときも自分は…」ってなるんですよね。

それを塗り替えるくらい沢山の人を透明じゃなくしないとソワソワし続けるんだろうなと思いつつ、これが自分の発信する意義になればいいなと思いました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?