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落ちるとこまで落ちる

僕は昔から気持ちが落ちているときは無理に上がろうとしないで、とことんまで落ちるような行動を取るように意識してきた。

体感として心っていうのは、沈み切ったら自然と浮かんでくるような気がしていて、長年鬱屈としてる人はまだ沈み切ってないか、不幸なフリをした方が都合がいいからと、自ら押さえつけてるような気がする。

例えば失恋をした後に失恋ソングをいっぱい聴いて、センチメンタルな気持ちにとことん浸ったら、自然と楽しい歌が聴きたくなったり、外に出かけたくなったりすると思う。

もちろんすぐに友達とカラオケにでも行って、パーッと騒ぐ方が楽になる人もいるとは思うけど、個人的にはその方法って、目の前気持ちを誤魔化す効力しかないんじゃないかと思ってしまう。

ある程度の物事には限界があって、これ以上どうしようもないというポイントが来る。

そのポイントまで落ちたり、逆に上がったりすると、もう反対の方向に向かうしかなくなるのだが、限界に達してないところで持ち堪えたりすると、これ以上落ちたくなくて必死になったり、逆に上がってる途中だと、更に上を目指してしんどくなったりするリスクを背負うカタチになる。

高校生の頃、何歳になっても苦しみ続けてる大人達を見て、「苦しみを薄く分割して人生を過ごしているから、ずっと苦しいんじゃないか」という仮説を立てた。

つまり、早い段階で自分自身が生きていく上で解決するべきことに向き合って、残りの余生を謳歌するようなプランを立てたのだ。

そして20代前半で、いわゆる人間関係やお金、将来について、あれこれと悩む必要がないという思考にまでは至ることができた。

実際に理想的な人間関係や、生活環境が整えてられたわけではないので、あくまでもマインドの話にはなるのだが、今世の中の人の悩みや愚痴を聞いても共感するのは少し難しい。

それを経て今は、資本主義社会と自身の性格や理想があまり上手く噛み合わなかったので、その辺りを調整しながら、30代に向けて少しでも心地良い環境が作れるように試行錯誤している。

その中で、その試行錯誤が間違いないんじゃないか、という発想が生まれたので書いておきたい。

落ちるとこまで落ちるという考え方は、抗ったり必死にならないことや、自然体でいるというか、心の反応に従うみたいなニュアンスを含んでいる。

と言うことは、資本主義社会に適応しようとして試行錯誤しているのは、自然体の自分とは違う行動を取っていることになるのではないだろうか。

もちろん落ちるときに思考停止になればただの落伍者になってしまうので、しっかり自分を俯瞰して捉え、「今大丈夫かな?」と見ててやる必要はあるのだけど、体感として落ちてる感覚は重力に引っ張られる感じで、浮上するときは無重力なので、今はどちらかと言うと重力があるのに無重力で生きようとしてる感じがするのだ。

その状況で無重力になるには宇宙船、すなわち資本主義社会を制する競争に参加しなくてはいけなくなる。

そこで、一度頭を休めて、今一度この落ちる感覚を大切にしたいと思った。

物体は基本的に外から力を加えないと静止しているが、例えば家が傾いていたらビー玉は自然と転がっていく。

同じように、僕が試行錯誤せずとも転がっていく傾きがどこかにあるはずなのだ。

世界で活躍してるスター達は努力を苦だと思わないし、何なら努力をしたとも思っていなかったりするけど、それは彼らがただその道を転がり落ちていったからなのではないだろうか。

中学のとき理科の授業で、U字型のコースに玉を置くと高さの力で同じ位置まで上がるという実験をしたことがある。

説明が下手で申し訳ないのだが、要は転がり落ちるのに力は必要ないけど、その落ちた力を使ったら上に上がることができるという話しだ。

体操の鉄棒みたいに、振り子のように揺れながら、次第に何回転もするような力を生み出すことは難しくても、今いる位置からすーっと転がっていける傾きに目を向けてみるのは誰でもできることかなと思う。

僕は野心家じゃないし、1番欲しいものが安心できる場所なので、そもそも必死になって作るようなものじゃないというか、自然体でいないと手に入らないものではあります。

そういう意味でも、今一度脱力というところを大事にしていきたいと思うし、このカタチじゃないといけない!というこだわりも捨てていいように思っています。

ここまでお付き合い頂きありがとうございました。

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