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日常を特別に捉えすぎていた
散歩は脳が活性化するから良いとよく耳にしますが、確かに私は歩いてるときに考え事をすることが多いです。
出勤や買い物の道中、腕を組んだり顎に手を当てながらブツブツ呟いて歩いてる様は、はたから見ればさぞ怪しいことでしょう。
しかし私自身は思考を深め整理するいい時間になっています。
今日もお買い物帰りにふと、最近の自身の心境の変化について新しく気付いたことがありました。
端的に言うと、愛は崇高なものじゃない。セックスは特別なことじゃない。信じる信じないは難しい話じゃない。という感覚が芽生えたことです。
保育園の頃に見た両親のケンカの様子や、母子家庭時代の暴力や放置などの体験、友達や両親の家族との関係性から、家族特有の多様性と限定性にずっと疑念を持ちながら接してきました。
今思うと、よそはよそうちはうち的な多様性と、家族ってこうだよね的な限定性のギャップが気持ち悪かったんだと思います。
そんなこともあって、いつしか穏やかな日常や、大切な人と過ごす時間を手に入れることが1番の夢になっていました。
そして、家族は愛情と信頼関係に分解できると考えた私は、早々に身内を切り、学校や職場の人とのコミュニケーションに意識を向けるようになったんです。
しかしそれは家族を大切に想うことが当たり前な社会と直に触れ合うことを意味していて、自分は手を伸ばしてもありふれた日常に届かないんだと、孤独感と共に日常への特別感が増していく日々でした。
ただ、家族を愛情と信頼関係に分解したことで、恋愛やセックス、仕事や仲間といった具合に世界観を広げて思考できたのは良かったと思います。
小学生の頃から恋愛をすっ飛ばして結婚相手を探していた私は、付き合って別れてを繰り返す学生恋愛をずっと馬鹿にしていたので、未だに告白というイベントが未知の領域にあります。
職場で気持ち良く挨拶したり、連携して業務を遂行するなどの当たり前も、照れのようなものがあって上手くできないことが多いです。
それでも解釈を広げて根本を解決しようとしたから変わったこともたくさんあります。もし家族に固執していたら未だに愛情や信頼の輪郭すら掴めないまま孤独死してたかもしれません。
結局のところ、当たり前の毎日に感謝を!的な、たまに当たり前じゃないと思い出すくらいがいいんだと思います。
きっとありふれた日常を目指したからそれが特別に変わって、価値が上がったせいで愛情や信じることを出し惜しみするようになってたんです。
だからと言って、誰彼構わず信用してお金を貸すとか、毎晩違う人を捕まえてセックスする人生にしていこうって話ではありません。
みんなが気持ち良く過ごせるように少し意識してみる。
その繰り返しの先で、ある日ふと気付いたらありふれた日常があって、それを特別だと、素敵なことだと思えるんです。きっと。