贖罪

ずっと贖罪のために生きていたいような気がする。

望まれずに生まれ、愛情や信頼のない環境で育ったと思っていた10代の頃、数少ない施しをくれる人のことまで冷たくあしらってしまっていた。

こんな自分と普通に接してくれる人がいるはずないと言動の裏を考えすぎていたんだと思う。

その反面、子供の頃から他人の悲しい顔や寂しそうな表情には敏感だった。

だから余計に優しくされたことに対して素直にありがとうと言えなかったことを悔やんでしまい、ここ数年はその償いが自分の原動力になっていった。

だけど人間の原動力は怒りや悲しみなど個人的な欲望であるほど馬力が出るものなので、僕は勝手に十字架を背負って逆に進む速度が遅くなっているんじゃないか?と感じることも多々あった。

18歳のときに恩人に顔向け出来る人生にすることを大きなゴールとして掲げてから、どうしたら顔向け出来る状態になるのか真剣に考えてきた。

結論、それは誠実さだと思うのだ。

でも当時は有言実行こそがそれであると思っていて、自分の言葉を嘘にせずに目標を達成することしか贖罪はないと思っていた。

もちろん直接ごめんなさいと言える状況があるなら1番いいが、さすがに僕が申し訳ないと思ってる人全員に会って謝ることは不可能なので、すでにやっている曲作りを通して多くの人に想いを届けられる存在になるのが手っ取り早いと考えたのだ。

だけど年齢を重ねるにつれ色んな出会いがあって、顔向けできる状態とは僕が胸を張れる人生なんじゃないかと思うようになっていった。

もっと平たく言うと充実した生活みたいなことで、街中でばったり恩人に出会したときに自分自身が納得した生活を送っていればそれが相手にとっても良い結果だと思うのだ。

数年前コネで進学した専門学校を中退したとき、申し訳なくて推薦してくれた高校の先生に電話をしたことがある。

そのとき先生は、「学校同士のことをあなたが考える必要はない。何年経っても教え子のことは心配だから電話くれて嬉しいよ」と言ってくれた。

ある種この言葉があるから贖罪の人生みたいな方に向かっていた節はあるのだが、僕自身20代後半になって昔付き合いがあった人と再会したとき、元気でやってるならよかったと思うようになって今までの考え方は違ったなと感じたのだ。

昔はそれが自分に都合の良い解釈というか、責任逃れみたいな行為だと思っていたけど、償うことを念頭においた生き方をしても誰ひとり得をしないような気がしている。

きっと人それぞれ型はあると思うけど、僕の場合は誰かのためにやったときより自分のためにやったときの方が誰かから感謝される確率が高いし、なんだったら誰にも助けを求めず1人で抱え込んでいても必ず声をかけてくれる人が現れる。

すなわち自分の心のままに動くことが自分に1番合ったやり方でもあるのだ。

充実というのはただ楽しいを指す訳じゃなくて、悩んだり悔やんだりすることも含めて僕は充実だと思う。

学生時代は親の顔色を見て、同級生の顔色を見て、気付いたら自分の感情を無くしてしまっていたので、今はその頃から感じなくなっていたワクワクする感覚を取り戻せてるような気がしててとても楽しい。

子供の頃より子供らしくをテーマに1ヶ月半くらい生活してみたが、これをもっと対外的にも示すようなカタチを作れたらいいなと思ってキャッチコピー的なものを考えた。

『取り戻せ、童心を』

これは仮だが、自分の活動のスタンスとかゴールを贖罪ではなく童心を取り戻すことをおいてみたら全てが丸っと解決する気がした。

自分自身が充実していれば顔向け出来る人生になるし、その姿とか姿勢が悲しい顔や寂しい表情の人の何かを壊すようなきっかけになれると思う。

人に何かを伝えるときにも直接メッセージを伝えるのが得意なタイプと行動で示す方が得意なタイプに別れると思うが、これまで話してきたように僕は行動タイプだ。

自分の武器は経験や価値観だと思うので、それを表現するために文章やお喋りという手段を使ってはいるけど、そのもの単体でお金を頂けるレベルのモノが作れるかと言えば正直難しい。

だから僕は自分自身の心のままに生きることを生業にしたいと思う。

今は想いだけで行動できてなかった自分が行動を起こせるようになっていくフェーズだ。

こうやって積み重ねて、ひとまずの大目標である真駒内アイスアリーナまで向かって、その後のことはそこから考えればいいかなと思っている。

僕が欲しいのは富や名声ではなく、あくまでも愛情や信頼関係なので、それらに囲まれた世界線で自分が何を望むのかなんて今は分からない。

とにかく1年間noteを投稿し続けてみることから僕の覚悟は始まるのだ。

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