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僕は世界が嫌いだ。幼い頃からずっと。

普段の生活でSNSが必要だと感じたことは一度もないし、ネットニュースを読むことも滅多にない。

タイムラインに流れてる色んな人の感情を見てるだけでも、目眩がして気持ち悪くなってくる。

なぜそこまでして人と繋がりたいのか、なぜ発信したいのか、正直なところ、あまり理解できていないまま歳を重ねている。

ありのままの自分であろうとすると、いつもここで矛盾が起きる。

あの日歌手を志していなければ、曲作りをしなければ、何の迷いもなく、SNSを使わない人のままでいられたはずだ。

子供の頃より子供らしくあろうと振る舞うほどに心は軽くなっていくが、SNSの文章を考えたり、投稿をシェアしてるときはすごく違和感がある。

この心踊らない作業は必要なことなのか?

そうやって考えていると、自分はずっとそこにいるだけでいい存在だったことを思い出した。

それは人気者の類とは全く違う、保護者や付き添い人のような役割に近いだろう。

ただ、自分は自分として、誰にも迎合せず、嫌われてるなら嫌われたままでいいと思っていたから、その立ち位置になっていたと思うのだ。

例えるなら月みたいなもんで、太陽の光がないと輝きもしないただの衛星。

でも自分のスピードで動いていて、見え隠れしながらもどこかにはあって、それを神秘的だとかミステリアスだとか言って魅了される物好きがたまに現れるような感じ。

きっと俺は俺のままでいてよかったんだと思う。

ここにいますと必死に叫ぶ必要はなくて、ただ自分の世界観で生きていたらいいんだと思う。

高校の文化祭で、「一緒に行くよ」と言いながら無理矢理俺の手を引いたあの子のことを、未だに鮮明に覚えている。

もしかしたら、そういう人を待っているのかもしれない。

僕が世界を嫌いなのは、自分の利益のために他者を貶める人がたくさんいるからだ。

救いの手が差し伸べられない、苦しい思いや、寂しい思いをしてる人がたくさんいるからだ。

資本主義だ、男性社会だ、競争だ、勝ち負けだ。

だから同じ目線に立って仲良くしてくれる人が好きだし、損得勘定や先入観なしで接してくれる人が好きだ。、

嘘のない言葉で、まっすぐな目で、手を引いあげる側にきっと俺はなれないような気がする。

ただ保育園の片隅で、お絵描きをしたり積み木遊びをしてる子供のように生きるだけなんだと思う。

先生でも、お友達でも、誰かの保護者でもいい、その様子を見て気にかけてくれた人が、きっと声をかけてくれるから。

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