スランプ
筆が進まない。厳密にいえばキーボードが叩けない。
何を書くにせよ、書く歓びを欠くことが無かった洋三が、この二、三か月の間、何も書けなかった。湧き上がるもの、閃くもの、ただそれを文字にして並べるだけの作業であった、「書くという行為」が、今では夢の中で走る様にもどかしい。
リビングの不細工なカナリアを見ている内に、気づけば二時間、テレビで垂れ流されるトーク番組を三時間、無為の時間であれば何の苦もなく意識を飛ばせるのに、いざ書く行為に向かおうとすると、五分が三十分に、一時間がまる一日のように感じられる。
以前は、情熱的なロングブレスの文章が洋三の特徴であったのに、今では直ぐに息切れのする、やたらと句点の多い文章しか書けない。
そして面白くない。
人に職業を聞かれたとき、「まぁ物書きですかね。」等と半ニヤケをして答えていた自分を、ひたすら恥ずかしく思う。
何故書けなく成ったのか?アイデアの枯渇、優れた他人の文章に対する劣等感、なまじスタイルに拘ったが故、老化によってもたらされる自己蔑視、高次の作品創造に対する恐れ、そもそも文章なんて書けなかったのか?
人は社会に依存する弱い生き物である。つまり人から評価されてなんぼ、強がったところで数は力であるし、愛されずには生きられない不自由な生き物である。
どんな生業にしろ、人をないがしろにして対価が得られることは無いし、多数の人に評価されて初めて仕事となる。物書きも当然その枠に入る職業であり、人に読まれないものを書いたとて、それは作品にも、ましてや商品にはならない。
自分だけの為に日記をつけるとしよう、しかしそれが文学であるためには人に読まれるという行為が必要であり、如何に文学的に優れていようと、読まれなければ文学として存在しないのである。
至極当たり前だ。当たり前すぎて面白く無い。
細いロープで火口に吊るされて、マグマをコップですくう。文学はそのようなものなのだ。
洋三は自身の狂気に恐怖した。そして、書けなくなった。
〈掲載…2017年 「風雅」カタログ〉