第一章 初めての土地で単身出張、二泊三日の場合⑥
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第六節 食事の向こう側へ
食事に満足し、ベースキャンプとして選んだ和食店「こはる日和」さんで、無事馴染み客への第一歩を踏み出した貴方は、次の課題へと駒を進める事にします。重鎮様は乾杯を済ませた後、又、ここで逢いましょうと言葉を残して先に退店されました。恐らく、1時間後にもう一度店に戻って来られて、もう一杯だけ呑んで帰る事になると思います。こういった重鎮の習性を我々は「主の川登り(ぬしのかわのぼり)」と呼んでいます。スタートとゴールを同じ店で行う事によって、変わらぬ明日を祈願するという行為だと言われています。
それはさておき、貴方はもう少し呑みたいなと感じています。しかしもうお腹は一杯です。となると次は食事のお店では無く、純粋にお酒を飲む場所を必要としている、という事になります。この様な時、推奨されるのは「アスク ローカル」という概念です。見知らぬ土地で自分の分析能力と勘を頼りに次へ進む事も大事ですが、この様に地元の方々と馴染めた時は、率直に地元に聴くという素直さも大切です。でもお客さんに直接聞くのも不躾なので、女将に聴くという形で皆に意見を求めるのが最適です。幸いここは雑居ビルです。様々な形態のお店がひしめいています。この後、もう一杯(この一杯は本当に一杯では無く、もう少し呑みたいという意味です)呑みたいのだけれど、何処かお勧めのbarかスナックは無いかな?と聴いてみましょう。Barとスナックは非常に似た生態のお店です。どちらかというとスナックの方では食事メニューがあったり、カラオケがあったり、大きな声で話す傾向に在ったりしますが、一概にそうとも言い切れません。カウンターを挟んでの接客を基本としている事も同じです。やや厚いホスピタリティーを有する方がスナックであると、辛うじて言えるぐらいの違いです。只、聴かれた方はbarとだけ聴かれた場合、静かなお店が好みなのかなと思う傾向があり、貴方が静かに呑みたいのであればbarの所在だけを聴けば良いでしょう。
しかし本稿では貴方は見知らぬ土地での交歓を愉しみたいという目的があり、それにはスナック形態が一番貴方の目的に合致して居ます。そこで両方を聴くという形を採ってみました。女将さんは少しだけ思案した後、もしカラオケが好きならこのビルの4階にあるスナック「トレモロ」がお勧めであると答えてくれました。横に座っていたカップルの男性の方も強く同意して居ます。ではそこに行ってみますと貴方が答えると、ちょっと待って下さいね、空いてるかどうか訊いてみますと言ってくれました。お店の音が少し電話から漏れてきます。どうやらカラオケを愉しんでいる先客が居る様です。女将は電話を切ると、大丈夫ですよ席は空いている様ですと微笑んでくれました。貴方は会計の時にお礼を言いながら自分の名刺を渡す事にします。先方も名刺をくれました。女将の名前は「高峰 小春」さんで、大将の方は「辻 博隆」さんです。はっきりとは分かりませんが、どうやら御夫婦では無い可能性が高まりました。女将の名前から店名を付けたんやぁと貴方が言うと、少し照れ臭そうに、そうなんですよベタでしょと答えてくれました。貴方は又来ても良いですかと謙虚に別れを伝えます。答えは勿論、「勿論」でした。
貴方はエレベーターで4階に上がります。同じ造りなのでやはり左側にお店が並んでいます。エレベーターから二件目に「スナック トレモロ」が有りました。スナックの看板も多種多様で、素材もプラスチックから金属、ネオン管等も使用されています。時には画用紙にマジックで書かれている様なラディカルなものも有りますが、トレモロさんはシックな真鍮で出来た看板がギターの形になって居り、弦の上にトレモロの綴りがtremoloと表記されています。文字は音符を模しており、この看板からは少なくともこのお店は音楽を愛して居るんだという主張が見て取れます。トレモロも恐らく音楽用語でしょう。
看板は淡い電球色の照明が当たっていて、観る者を温かい気持ちにさせるデザインです。
店のドアも少し重厚でマホガニー色に塗装されています。看板と同じく真鍮のプレートでMembersと表記が有るので、このお店が会員制であり、場合によっては入店が断られることもある事が解りました。そういう意味でもこはる日和さんに紹介して貰って良かったと安堵した貴方は、少しドアを開け(ここでも第二節と同じく35センチルールを適用しましょう)声を掛けます。そしてこはる日和さんから紹介をうけた事を伝えると、カウンターの向こうからお待ちしてましたと明るい声で返事がありました。
さて次の第七節では少し深い時間になってからの、カラオケの楽しみ方と作法について展開していきたいと考えます。
<第7節へつづく>
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