私、包 洋三から御客様御各位へ
私が書けなくなってから時間が過ぎました。文士が書けないという事は無職であります。アマチュア文士と商業文士の違いは、当然ながら経済的価値ですが、もう少し厳密に言うと顕在的経済価値であると言えます。世に出ない文章に素晴らしいものは沢山存在するし、また書かれていない作品も世紀の大作があるに違いないと思われます。
世に出す、つまり不特定多数の人々に読まれて、しかも対価を求めてそれに答えていただいて、しかもそれが人々の自身の所蔵として本棚に収まる。そんな幸せな作品を何本も生み出し続けている者は本当に稀有な存在であると言えます。
どのジャンルの作品であれ、印刷物は消耗品であり、小説は数度のまた数十年、ものによっては数百年を経ても愛されることもありましょうが、それでもやはり消耗品である事に違いはありません。文学作品は優れた工業製品であり、大量生産に向いた芸術(一応は)様式です。音楽や絵画、彫刻等の作品よりも量産性に富み、非常に訴求力の高い性質を有するものです。
しかし根本的な問題として、解釈は読者に委ねられるしかない存在でもあるのです。たとえ熱心なファンであっても、否、そうだからこそ誤読からは逃れられない運命にあります。そしてそれが読書の楽しみでもあるからです。同一人物であっても、読む時期によって感じ方が変わります。子供の頃に嫌いだったピーマンが成長とともに好物になり、又、飽きてしまったりする様に、読者の状態が文章の形を変えていくのです。
長々とお話ししましたが、私はそれに耐えられなかったから書けなくなったのでは無いのです。ある事がきっかけで、自身が虚構内存在であることに気がついてしまったからなのです。三文文士である事は良いでしょう。既存の優れた作品に嫉妬するのも良くある事です。そういうあらゆる人間臭い行いや、思いが、作者である井上某かの駄文に過ぎない事に気づいてしまったからなのです。
唯脳論では無いですが、自身の周りに起こっている事、認識している世界は、目で見て、耳で聞いて等、つまり五感で認識している訳では無いといえます。脳に蓄積された記憶、つまりデーターに基づいて再構成され、改めて「私の世界」として構築される、言い換えればそれだけのものに過ぎないのです。世界は存在するのでは無く、私に作られているのです。それは納得出来得ます。しかし肝心の私が想像の産物であり、井上某の想像を超える事が出来ないと気付かされた時、書けなくなってしまったのです。
現実と虚構と夢や夢想が混然一体となったこの世界が、私が作品として生み出したと認識していた、愛すべき駄文たちが、いや、そもそもこの創造主の存在に気付いた虚構内存在である主人公のこの独白も、かの者の脳の檻から出られないのです。カナリヤの様に。
今、包 洋三に出来る事。それは、創造主に対する反逆だと気付かされました。
私、包 洋三は本文面を持って、創造主である井上某に対し、宣戦布告する事、ここに宣誓します。
〈掲載…掲載物確認中…!〉