蝶のオアシス
日の出から日没の間がはっきりと長く感じられる様になり、衣替えがすっかり終わった頃、洋三は雨上がりの路地を商店街に向けて歩き出した。
未だ雨水を吸ったままのアスファルトは、やたらに照りだした太陽光を反射して眩しく、肺に滑り込む空気は地表の温度を奪って生温かい。
締め切りの迫ったエッセイのネタ探しに文房具屋にでも行って来ると妻の真帆に告げ、久しぶりの外出を試みたのだったが、実は引き出しには封も切っていない新品のペンが眠っており、またもや創造力への供物を増やすに過ぎない事に嫌気がさしていた。そうして洋三は当初の目的地を失い、かといって家に戻る気も失せていたのだった。
そんな行く当ての無い洋三にとって、商店街裏にある子供に見放された小さな公園の花壇が、色とりどりに咲き誇る花々の楽園となっていた事は嬉しい誤算だった。公園の陽だまりにあるベンチに腰を下ろし、低くなった視線が捉えたのは、花畑からそう遠くない水溜りに、アゲハ蝶の群れがひしめき合っている光景だった。サバンナのオアシスに群がる草食動物の様に、無心に水を飲む蝶達の姿に心奪われた洋三は、まるで自分が神の視点を与えられた様な気がした。
其の時ふと、どこか高いところから自分を見つめている視点がある事を洋三は感じた。
まさかと想いながら首の稼動粋限界まで空を見渡してみたが、自らの眼が捉えたものは東に流れて行くかつての雨雲と、雨上がりの虫達を狙う名も知らぬ鳥ぐらいで、偉大な神々や、超越的な存在と眼が合う事は無かった。
しかしそれでも……見えない何かの存在に気付いてしまったという感覚は、まるで微細な生物が血液の中に潜り込んだ様に、洋三の心をザワザワと侵食して行くのだった。
〈掲載…2008年 「風雅」カタログ〉