【1球目】43才、3代目事業承継者の“頭の中”
当社には、広報グループがあります。
↓ 広報グループの担当者とのやり取りです。
担:『TikTokを始めます。56才の取締役をメインに考えています!』
私:『おもしろそうだね。やりましょう』
担:『それで、社長には note をやってほしくて。社長の考えていることを文章で書くだけなので、いつもの日報gambaみたいな感じで全然大丈夫ですから』
私:『は、はい…。noteってSNS? すぐ調べてみますね』
数日前の社内でのやり取りです。
そんな流れで56才の役員はTikTokを、私はnoteをやることになりました。
TikTokでは華麗なダンスを披露してくれていますので、私はここで私の考えていること、感じていること、これからやろうとしていること、ちょっと過去の振り返りなどを書いていきます。
まず初めに自己紹介を。
1977年11月12日生まれの43才、出身は神戸市垂水区です。
大学で九州の佐賀県へ行きました。
佐賀で7年。名古屋で2年。途中、山梨で半年ほど在住し、5年間の会社員生活を経て父親の会社『三陽工業株式会社』に戻ってきました。
今から16年前、27才の時です。
いま43才、会社は今期42期を迎えています。
今年44才になりますので、2才の時に会社が出来た計算になります。
最初の10年間は、随分と苦労があったみたいです。
私が小学校3年生までは、公団の住宅(今で言うとUR)に住んでいました。
小学校3年生の時に近くの分譲マンションに引っ越し、高校2年生の時に、これまた近くの一軒家に引っ越しました。
過去の決算を見ると、完全に引っ越しと会社の業績は連動しています。
私の知らない多くの苦労が、そこにはあったと感じています。
先代と先々代には感謝しかありません。
ちなみに先々代は故人であり、先代も既に勇退しており、今は会社にはいません。
株式譲渡も済んでいますので、完全に事業承継は終了しています。
こどものころのこと
こどもの頃のことを思い出すと、印象に残っているのは2つです。
『社長の息子』と『野球』
いつからか、社長の息子と言われるようになりました。
いつからかは覚えていません。すごくそれが嫌だった。
でも、嫌って言えない子でした。
勉強もできるわけではなく、運動会のリレーでも一番最後か最後から2番目が定位置。ドタバタ走っていましたね。
人見知りで引っ込み思案。
欲しいものがあっても「素直に欲しい!」と言えない子でした。
社長の息子と言われることが、とてもコンプレックスでした。
嫌で嫌でたまらなかった。
それを受け入れるまでには、随分と時間がかかりました。
小学校3年生の時に、小学校の野球チームに入ります。
自己主張が全然強くない子でしたが、野球は好んでやっていました。
ただ、めちゃめちゃ好きかと言われると、当時はそうでもない。
本当に、なんとなく入った感じです。
野球チームに入ると、野球の上手さは真ん中くらい。
そんなに強いチームではなかったので、試合には出ることができました。サードやったりショートやったり。
1番打ったり6番打ったり。
中心選手まではいきませんが、試合には出ていたので楽しかったですね。
そのまま野球は、大学まで続けることになります。
この野球が、私を変えてくれたものの1つです。
それまで人見知りで引っ込み思案な性格が、少しずつ活発になってきました。今まで運動会のリレーで最下位だったものが、トップでゴールできたりもしました。
野球を始める前とそれからでは、だいぶ性格が変わったと思います。
ただ、本質は変わっていないと、今でも思いますね。
覚醒→暴走!?
中学校に入っても野球部に入りました。
3つの小学校が1つの中学校に集まってきましたので、最高学年で初めてもらった背番号が「12」。
めちゃめちゃショックなのと、それを親に見せたくなかったので、自分でユニフォームに縫ったことをよく覚えています。
しかも、ちょっと下につけすぎてかっこ悪かった(笑)
中学2年生の時に上級生が抜けて、自分たちが最高学年になりました。
秋ごろだったと思います。
当時4番でピッチャーの子がキャプテンをしていました。
顧問の先生がいない時に、みんなで練習もせずに遊んでいるときがありました。そこに先生がやってきてました。
めっちゃ怒っています。まあ当然ですよね。
先生:『おまえら何しとんじゃー!(4番でピッチャーだったキャプテンに向かって)お前が指導せなあかんのちゃうんか! もうええ。お前キャプテン辞めろ! 明日からはお前がキャプテンやれ!』
と指さしたその先にいたのは、私です。
私:『えぇぇぇぇぇーーーーーーーーー!!!』
いやいや、そんなキャラではないし、何ならみんなと自分も一緒に遊んでたし。「まじかぁ…」、その時の心の声です。
その日の帰り道。
坂道を登っていくのですが、とてつもなく足が重たく感じました。
明日からのことを考えると憂鬱でした。
やったことがないことを、いきなりやらされる。しかもキャプテンって…。
次の日から、私のキャプテン人生が始まります。
高校も大学も、野球部のキャプテンをさせてもらいました。
本当に大きな経験値になりましたし、財産になっています。
あの日、先生から言われなければ、今の自分がないかもしれません。
あの時はとてもしんどかったですが、その経験ができて良かった。
中学2年生の時に、覚醒しました。
その後、「やらなあかん!」という想いが強すぎて暴走してましたけどね。
高校生から大学生
私の通っていた高校は、兵庫県立星陵高等学校。
松井秀喜さんの石川県の星稜高校とは、「陵」が違います。
よく間違われます。
自分の家より徒歩20分ほどでした。
小学校から大学まで、全て徒歩での通学でしたので、定期と帰りの寄り道がうらやましかったですね。
高校と大学は、一生懸命野球をしてました。その印象だけです。
それなりに学生生活はありましたが、中心は野球です。野球ができる環境にあったことに、心から感謝しないといけません。
その当時は「練習しんどい」とか「雨降ったらいいのに」とか思っていましたけど、感謝しかありません。
高校3年生、受験生の時に、神戸商科大学という大学を受験しました。
今の兵庫県立大学です。見事に落ちて、そのまま佐賀大学へと進みます。
ほんの数か月前に、仕事で兵庫県立大学で学生に講義をする機会がありました。その時の表題が、
『この大学に落ちた経営者の話』です。
こんなふざけた表題を許可して頂いた兵庫県立大学とみなと銀行には、心から「ありがとう」とお伝えしたいと思います。
兵庫県から佐賀県へ。
これもまた私の人生を大きく変えた行動の1つになります。
今日はこの辺で。