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【901球目】20年。

私はいま47歳です。先日なりました。
そして、三陽工業に入社したのが27歳です。ちょうど20年経っていますね。あまり気にしていませんでしたが、ちょうど20年です。この20年間をざっと振り返ります。

入社してリーマンショックまで

NOと言わない。入社して2年間は決めていました。
時代背景もありますから現在では必要ないかもしれません。2008年に起きたリーマンショックまでは、それまでの三陽工業の仕事が全て過去最高と言って良いくらい忙しい状況です。全体の90%以上がオートバイ関連のお仕事。いま考えると恐怖ですが、それがその時の当たり前です。何の違和感もなく、日々仕事をしていました。

ただ、その中でも人がやらないこと、嫌がることを率先してやっていた。いいように使われることもあったかもしれません。ただ、見ている人は見てくれています。個人としても三陽工業としても同じ事が言えました。

リーマンショックから生産推進グループまで

正確にはリーマンショックが起きた翌年2009年から2016年までです。リーマンショックは製造業においてとてつもなく大きな打撃になりました。
トヨタ自動車においても同様でした。トヨタ自動車周辺の社員寮から人がいなくなった、その為に飲食店も閑古鳥が鳴いている、そんなニュースを見た記憶があります。厳しい状況の中、岐阜営業所を開設出来たのはとても大きな自信になりました。やったことがないことをやってみようを実現出来た瞬間でした。三陽工業の県外拠点第1号です。当時は子会社アイコムという会社でした。

生産推進グループからコロナ禍へ

生産推進グループは様々な所で批判されながらその人数を増やしていきました。それに伴い、売上高も増加していきます。生産推進グループを始める前は24億程度だった売上高が翌年40億、その翌年に60億と急成長していきます。その過程で多くの拠点も増えていきました。今では九州~関東まで拠点が存在しています。

三陽工業が明石でしか仕事をしていなかった時代を知っている人は今の三陽工業の中では希少な存在です。リーマンショック前からいる人達ですからね。リーマンショックを乗り越えて、アクセルとブレーキの両方の重要性も感じて会社が一段も二段もステップアップしていこうという最中にコロナ禍に突入していきます。

コロナ禍

売上が1年で2割落ちました。ただ、その翌年に戻りました。コロナ禍があって会社としては良かったと考えています。いわゆる踊り場ができた。様々な業務の精度が上がってきました。それまでは仕組みはあるが雑だったところの雑さが少しずつ無くなってきた。まだまだ試行錯誤は続いていますが、コロナ前と比較すると雲泥の差です。

コロナ禍のその時はとてもしんどかったですが、それを乗り越えて様々な成長がありました。そう、リーマンショックと同じ様な感じでの成長を感じています。

リーマンショック、生産推進グループ、コロナ禍。
生産推進グループは壁にぶつかった末に誕生したグループです。これまでの20年間の中で大きな危機、ピンチは何度かやってきました。そのピンチが全てチャンスになるように思考と行動を積み重ねてきました。結果、そのピンチがあったからこそ、今の三陽工業があると言えます。逆に、もし順風満帆だったとすれば、間違いなく今の三陽工業はありません。それは断言できます。

20年間。あっという間でした。
27歳の若造が47歳になるのですから、それなりに時間は経過しています。
そんな中で三陽工業は7億1,800万円の売上高が10倍以上になっています。今期は12~13倍での着地になりそうです。仲間も増えて来ています。もっともっとの欲は今まで以上に高まっています。まだまだ、もっともっとできるはず。これからも、継続していきます!!

本日もありがとうございました。
明日もよろしくお願いします(#^.^#)


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井上社長|三陽工業株式会社
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!