東ベルリンの四時間
サヌカイトとの旅には一人旅らしいちょっとした副産物的想い出がある。
1987年2月、15名ほどの観光客を乗せたバスはチャーリーと呼ばれる東西唯一の通路を抜けた。一日に何便か観光客がバスツアーで東ベルリンに行くことができた(東ドイツマルクを買う必用あり) が寒い冬であったので参加者が少なくまとめられて、一便だけになったようだっだ。日本人は私だけ、というか白人でないのは私だけ。厳しい検問のような持ち物チェックの後、バスはゲートをくぐりぬけ静かな短いツアーは始まった。
乗り込んだ初老男性のガイドさんが最初に案内してくれてのはペルガモン博物館。さほど古い建物ではなく、メインの見ものは「ゼウスの大祭壇」と呼ばれる紀元前トルコのギリシャ神話が彫られた延長100mに及ぶ石造りの建築遺物。(持ってくるだけでも大変だったろう) 絵画の記憶が無く移築した門などの構造物が中心で華やかさには欠けた。もちろん本物で壮大だが、こういったものは現地で見るべきものだなあと。
それにしても大都市であるはずだが人の姿が極端に少く、寂しく寒さを助長させる。(2年後のベルリンの壁崩壊への衰退感だったのか)私がもっとも見たかったカールマルクス通りの建築群も、東ドイツの威信をかけた巨大さではあるが色気はなかった(バスの窓から見た限り、ただ私は好きだ)
自由に降りられることはなく、降りたとしても行動は制限される。写真も撮れないが、完成直前のインターホテル(現ウエスティン・グランド)が世界最高になるというガイドさんの東ドイツ万歳的自慢話を聞きながら、ランチの為に水鳥がたくさん遊ぶ池のある公園に着いた。ちょっとした自由はこの時だけ。食べた物の記憶は全く残っていないが、記念にと買ったタバコが帰国した時、成田空港の税関で変なものを持ち込んだとして20本全部抜かれチェックされた。私が大麻でも吸ってるように見えたか。
もう33年前にもなった、29歳の私にとって、ベルリンの壁という重い歴史を考えるにふさわしい大切な時間だった。ほんの数日前にも壁を乗り越え亡命しようとした人が撃たれて死んだというようなことを隣の方がしゃべっていた。壁に阻まれて命を落とした人は136名ともいわれている。
この4年後のベルリン、廃墟となっていた旧日本大使館が美しく修復されて日独センターとなっていた建物で、サヌカイトのコンサートを開いた。もうベルリンに西も東もなかった。200名ほどの素敵な招待客が集まったこのコンサートは、当時ヨーロッパで活躍されていた作曲家石井真木さん(故人)の協力によるもの。その時はサヌカイト命名100年を記念した友好と復興の時間。
東ベルリンに行ったとき泊まっていたのは西ベルリンのホテル シュタイゲンベルガーベルリン。ぶらぶら散歩して骨董品屋さんなどを覗いていくつか買い物をしたが、美味しい料理屋さんには巡り合わなかった。一番おいしかったのは、バーガーキングのワッパー。今なら何でも検索できるがそんな時代でもない。あまり香りの無い冷たい空気感を身体が覚えている。冒頭の写真はクーダムで格好の良いバイクを見つけたのでパチリ。西ベルリンに戻る時の検問がとても厳しかった。軍人の目が忘れられない。
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