むくむくと意欲がわきあがる(この人間社会に適合とかそもそも無理)
こんにちは月刊で書いています。4月から時給労働者になったもののそのバイトにはなんの意欲もわきあがりませんが、他のところで意欲がわいてきましたのでそのことを書こうかと思います。
それは移住です。
しかしいまここにいる私も、また、うまれた市から出て別のところですごしており、そもそもが根もなければ葉もないので、これはもう「移住はとっくにはじまっている」のであり、さらに「人間の生涯とは気づく気づかないにかかわらず移住である」のであります。ほらよく仏教が「林住期」とかいうじゃないですか。あれは比喩ではなく本当のことだったのです。ちなみに林住期は人生でいうと4つの期のうち3番目で世俗を離れるときだそうですが、なんで「林」なのかというと、インドのマヌ法典によればそのころになればもう子育てでもなく家族とも離れ社会的なナニともはなれて林の中で瞑想してろっていうんですね。引用なのでそう書いてあるとしかいえませんが。とはいえ瞑想が迷走になるのが人間のつねで。
まあそもそもがインドうまれの仏教からして四門出遊ですから「出ていく」ことがあるんでしょうね。
さて移住ですが、このnoteに書いてるのが北海道へ旅したら大変よかったみたいなことを書いているわけですが、あちこち旅行しているうちに、北海道をリピートすることが増えて、ますます何回も北海道にいくようになるうちに、道北あるいは道東あるいは十勝あたりが増えていき、名寄旭川北見釧路帯広などがリピートになり、旭川から士幌足寄にいくのも車でいけばそれほどの遠さでもない感じになってきました。飛行機は旭川空港が就航率も高く中心になって便利なのでよく利用していました。います。
それでこないだいった十勝がたいへんよい場所で移住するなら十勝かなあと思うようになり(モール温泉の存在が大きい)、それを心のあこがれエンジンとして活用するようになったわけです。
あこがれエンジンというのは造語なのですがつまり「つまらん日常生活の中でも考えること未来の構想があるとすこし元気になる」というものです。
それって誰でもしてるもんじゃないんですかね?どうでしょう。
実際にそれをやるやらない結果を出す出さないは別として、日常の生活の中になにかニンジンをぶら下げて、それを励みに(たのしみに)その日を過ごす、その週をすごす。このくらいは誰でもしていると思うのです。
移住計画は私にとってのニンジンであり、心のときめきエンジンであり(また名前がかわりました)、憧れの力が私を日々生かしているのです。
ここでふと思いましたが、これまでの日本の人の多くの場合、既婚者となり家族を再生産することが多かったため、なにか「これをするこれをときめきエンジンとする」と考えたり選択したりしなくても、いつのまにか結婚してコドモができて、そしたらそのコドモを育てあげることがタスクになり、コドモは(大体の場合には)愛の対象でもあり、愛の対象をいつくしんで育てること自体はたのしみでもときめきでもあるでしょうなあ、と私なぞは想像するんですけど、ここでわかることは「自分の頭でかんがえなくてもそのときめきはタスク発生している」ことであります。
(( おそらくはそういう「強制タスク」こそが、既存の社会の秩序の形成に寄与するものであり、人間は家族をつくってコドモをつくり人口を再生産による維持の結果が起こり、国力を保ち(衰退させず)、資本主義を興隆させ、それの何がいったい悪いのか?と思いながらやってきたのだと思います。思いながら、です。考えつつ、ではなく、考えた結果として、でもなく、思いながらです。つまりその正負の影響を吟味する暇もなく、他国との他人との生存競争に勝つことはたゆまざる成長だったというのが荒れた資本主義であり、この世には経済人による荒れていない合理的選択だけをする経済などは存在せず、そのように個々の人間は家族つくりに勤しむことだけが結果として平凡市民はそれしてればいいんだくらいのもので、他人のつくった文化にのっかってる自覚などはなく~~))
なにしろコドモは待ったなしだといいますから、考えているヒマなどはないのでしょう。また、できたコドモを捨てるわけにもいきませんし、いまさらこのタスクはやんめでキャンセルでチェンジと言うわけにもいきません。女も男もその家族を成り立たせて前にすすませ時間をすすませ、成長させ、はあこれでタスクをやりおわった、という満足感と使命をはたした感があるのでしょう。
私は普段そういうことを考えない人間ではありますが、どうも4月からバイトをはじめたら、そこにいる人間がなにも考えていない人間(私の眼から見ての印象です)で、なんだかそのわりにはえらそうにしているので、これはおそらく何事かをやりきったプライドがそうさせているのではないかと仮説を立てた次第です。こいつらなんかをした気でいるが、実際には何をしたというのかねえ。などと悪罵を吐きたくなりますが、かろうじておしとどめて、この場所に書いています。
とはいえ悪罵は自分にかえってくるし、天に吐いたツバは自分の顔に落ちてきます。なにも考えていない?私もまたなにも考えていない人間で、なにか仕事をまっとうしようという気もないし、なにごとかをなし遂げたわけでもなく、家族もなく子もなく資産もなく、ないないづくしの50代アルバイト(時給労働者)になってしまった、みたいなことも言えるのかもしれません。
(それの一体何が悪いというのでしょうか)
実際に私が移住ときめきプラン(また名前がかわった)を考えているのは、そういうなにか呪詛のような言葉を無化する方法はないものかと考えた結果かもしれません。多くの人が想像で「そういう一発逆転みたいなことを考えてるんじゃないの、どうせ失敗するだろうけど」などと言うでしょうし。
他人のいうことなど気にする必要はありません。他人は私の人生に責任もとりませんし。だいたい失敗したらどうなるというのでしょう。失敗とは具体的に何を失敗というのでしょうか。もし移住先になにかそこに住めない事情が発生したら、また別の場所にいくだけのことで、大したことないです。だいたいもう既に沢山の失敗をこの30年でしてまいりました。大学を出て30年になったのです。大変に失敗も曲線も変転も多い30年でした。死んでいないし他人をころしてもいません。いまのところ持病もなく、薬の定期服用もなく、今年もフルマラソン完歩できたし、万々歳です。
したがってやりたいことは自分で決めて全部やらせていただきたいと思います。だいたい引っ越しするだけなら日本全国たいした問題ではありません。こないだの引っ越しは、引っ越し業者への不信感がつのったので、ヤマトさん佐川さんに個別荷物依頼方式でのりきりました。冷蔵庫洗濯機などはわりきって処分して、新居で買う方式にすれば可能です。ベッドは無いし、布団も小さめにしておいてよかったです。他に大きいのはソファーですが、2人掛けなのでこのくらいなら包んでおけば佐川さんは運んでくれます。
移住ロマンなんか幻であり、移住に期待しているのはそこにある空と空気であり、川と大地であります。そう簡単に人間がどうこうできないものであります。
そう、人間とうまくやっていけない系の人間は自然と対話するくらいしかないじゃありませんか。そう思うわけです。冬に凍てつく湖面の上を歩いていくしかないじゃないですか。日本ではなかなかどこでもできるわけじゃないことです。
だいたいさいごにはみんな死ぬわけですから何をどうしようとほっといてくれであります。結論がだんだんやけくそになってまいりました。しかし移住に心ときめき応援団なことだけは確実です。そんなことは実行するためのダンドリを考えるだけでも非現実的だって思えるようなことを実行することこそが意欲の源です。わかりにくいかもしれませんが、他人の欲望がわかりやすくてたまるものかとも思います。誰にでもわかるような欲望などはネス湖のネッシーに食わせておけばいいのです。あれはひっこみがつかなくなったことの代表例です。
そう思えば、人生一度くらいは「ネス湖」というものを見てみたい気もします。陰鬱な湖だと思いますけど(偏見)。イッシーのいる池田湖は指宿にあり、私は毎年いぶすき菜の花マラソンに参加しているので池田湖も通ります。湖畔の休憩所のトイレがきれいになっていました。そこを越えて、湖畔をはしり、いつしか丘を越えると開聞岳が眼前に大きくみえて、このあたりでもうマラソンなんかやめて回る流しそうめんでも食いにいきたくなるのですが、ここらあたりからの後半戦がマラソンのだいご味です。
すなわち死にそうだがまだ死なないあたりでどのくらい戦えるのかが正に正念場といえましょう。移住をしちゃえ。してしまえ。しかし性急に行くのではなくちゃんと年単位で準備をするつもりでいますし、まあそこはこのnote
のつづきで報告できるといいですね・・・・