仕事そのものは全く人生の重要な要素でもなんでもない
写真は9月に旅して瀬戸内海の豊島から船で高松へむかう航路のものです。海はいいですね。平らでひろい。
さて10月の成り行きですが、先月無職になると書いて、やっと確実に日付込みで退職予定も成り立ち、10月中には晴れて無職になることができます。そこで今月は、仕事について考えたことと人生の重要な要素について考えたことを書こうと思いました。
いろいろな仕事(アルバイト)をしてきましたが、これが人生そのものであると思ったことは一回もなく、ないままできたのでまた無職になりますが、それはなぜかといいますと、仕事とは関係のないところに私のやりたいことがあったからですね。それは旅であり、また何かを書くために脳をフル回転させることでありますが、これらは今のところ「仕事」ではないです。
いうなれば一般的な「仕事」は職であり俸給や営業利益を得ること、つまり現金または帳簿上の利益を得ることが仕事の結果であります。しかし、「あなたの夢は?」などとこどもに聞くと、あたかもそれは職のことであるかのように「お菓子屋さんになりたい」「公務員になりたい」などとのたまう子どものいかに多いことか。
そこで私は言いたいわけですが仕事は人間の人生にとってまったく重要なものではありません。迂回して、結果として仕事が重要になることもありますが、それはあくまで結果であって、その前に考えるべきことがある、と私は確信しています。
それは何かといいますと、「強く生の悦びがある」ことです。
いろいろ考えるにあたって、なにかを定義めいた形で言うときは、それはあらゆる誰にでも当てはまる形式で言明しなくてはいけないのではないか、と考えるようになりました。つまり赤ん坊でもおじいさんでも、およそ行動の自由のない寝たきりの疾患をかかえた人でも、生命がある状態であればどんな人にもこれは重要であると言えること、が文言の形式になっているべきと考えます。
だから「仕事」だとすると、それは「仕事ができない」状態の生命があるので不適切なわけです。すなわち、人間は生きている状態があるかぎり、仕事などしてもしていなくてもどうでもいい。そんなことは価値として重要ではありません。
もちろん「個人として重要である」と思ったり実感したり金を手にいれてこれでうまいもんを食うことにしようとか、そういうのはその個人にとっては重要なこともあるでしょうけど、ここでは普遍にのせられるようなことだけを「価値があって重要である」と考えることにしたいのです。
個人的体験でいえば、年々私は鼻の空気の通りが悪くなっているなあ(副鼻腔炎かしら)と思っているのですが、40代最終盤で花粉症を発症したこともあり、不快感がおなじみです、そんな時にサウナで高温蒸気に包まれていると鼻の通りがすっとよくなることがあると分かりました。このときの身体の快感は何ものにも代えがたいものがあります。空気が吸えるし吸いやすい、なにも抵抗なくすうすうと入ってくる肺が新鮮な空気で満たされる。素晴らしい悦びです。
このような身体的感覚は嘘をつけないというかごまかしようがないというか、明らかに「悦びがそこにあるということは真」であるといえます。
では身体感覚が基点ではないものはどうか。
仕事で(まだ仕事が終わっていないもので)をしていて、無理やりなタスクがあったのですが、ふとしたことで上の人が「これはしなくていい」と判断したので、ふっとその重石がとれたことがありました、つい先日。このとき、直前まで私は、その無理タスクが重くて、不快で、いやらしく、どけてほしいと願い、気分が重く、頭痛がして、空気がうまく吸えず、つまりは全身の倦怠と疲労感に包まれていたのですが、その上の人の言葉があって直後に身体が軽くなり、あまりの変化の大きさに浮遊感さえ感じてしまったことがありました。重石がとれるという比喩表現よりもさらに上の感覚です。この場合には精神を妨げていたものが突然消失して、それによってマイナスからの大きな変動が起きた悦びといえます。脳がそれを査定しているのでしょうが、たまらないものがあります。
例示は十分ではありませんが、このように悦びは質も量もシチュエーションも何もかもが個人のその時期コンディション事情様々であり、まったくなにかパターン化することさえできないとは思いますが、ともあれ悦びに分類されるものとして扱っていいと思います。消極的積極的の違いはあるでしょう。寝た切りの人で意識がもうろうとしている人がどのような悦びを味わうのか?と思われるかもしれませんが、たとえば身体清拭を行ってマッサージ効果もあって皮膚コンディションが明らかに改善するという状況は十分にあり得るものであり、ご本人に確認することはできませんが他の意識ある人にそれを行ったときの感じる悦びをもっておそらくは同様のことが起きていると想像することができます。皮膚感覚の入力が途切れていなければの話ではありますが。
このようなものを消極的(受け身の)悦びであるとすれば、積極的悦びとは自らの意思をもち進んでそのことを行うことで得られる悦びであります。つまり「それをすることを望んでいる」→「やった」→「GOOD!」の展開であり、悦びを得られる結果を知っていてそれを行う(例・御飯を食べる・美味しい・満足)ことであります。
たまたま仕事が、行うこと、人間関係、危険度、成長を感じられる、自己効力感がある、良い人間との出会いがある、といった点で「強い生の悦び」につながっているのならば、それは寿ぐべきことで、大変よろしゅうございますね。
また、人間の得手不得手で、それを知らなくても、たまたまそれが本人の行うことの得手に属することだったり、結果としてよい方向に進んだ場合も、よいのではないでしょうか(私個人で言えば、事務職として採用されたことなど一回もありませんが、結果として数字を扱ったり事務的処理を行うこと、伝言を確実に伝えること、報告書を事実ベースで書くことなどは得手です)。
「たまたま」という表現でしたが、私はこういう仕事がうまくいく系統のことは「本人の努力」と「たまたまそれに遭遇した」の分量でいえば、たまたまの偶然による仕事との出会いのほうが遥かに大きい割合を占めていると思っています。根拠について詳述するだけの気力がいまないので書けませんが、人間の生などはたまたまの偶然に弄ばれているだけだという視点です。
つまり何が言いたいかといえば、生の悦びがたまたま仕事である場合もあろうし、そうでない場合もあるので、仕事が無条件で人間の生命の重要事であるなどとは決して言えないということを強く主張したい、これだけです。
仕事として全くうまくいかない、トラブル発生、他人との衝突、無視、解雇、などなど行われていても、それでも他人との出会いは今の日本では仕事場くらいしかないし、出会ったときにそこに重要なこと(心につよく刻まれるような交流)が起こることもありますので、仕事を忌避しているわけではないですが。
書いているうちに私も愚のほう(器や思考が小さい)ですのでだんだん自分の主張が全きものではないのではないかと疑念がわいてきました。こんなときは早々にアップしてしまうに限ります。
今後も無職とかパート労働者とかいろいろで死ぬまでは生きているでしょうから、その中でなんらかの生の悦びを探して追求していきたいと思います。そのために貯金を使うなどは当然のコストでありますから、死んだあとに貯金が残ってしまうよりマシと考えて、使って消費して有効に使用していきたいと思います。今後も月一回で更新して、どのようにお金を使ったか書いていきましょう。