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日記について考える

写真は私の自炊のガスコンロなのですが、酷いですね。でもこれが真の日常なので仕方ありません。台所写真って日記ブログっぽくないですか。

おもしろい日記、他人からみても「これはおもしろい」と思える日記ってどんなんだろう?
と思ったのは、私も日記を書く民ではありますが、自分の日記を自分で読んでおもしろいのは当たり前だと思ったんですね。だって私のために私が書いて、私を楽しませ、私があとで読んだときにどうかんじるか、それは私は私のツボを知っているし、私が過去を懐かしむというセルフ感情プレイバックもできますし、私が過去のたとえばそうですね、モーヲタからキッズ(ハロー!プロジェクトキッズ)ヲタだった時代のこととか、克明に日記に書いてありますので、自分の体験を再び追体験できるわけで。もちろんこれは客観的にみたら「いい年をした大人が馬鹿みたいな」でありますが、本人は自分のことは肯定したいので、いい思い出として今でも反芻してもぐもぐできるのであります。
さて。

じゃあ他人様がなんかあったんだよっていう日記を読んで一体何が楽しいのか。代理体験。他人の生活、他人の脳みその中身、他人の衝撃、他人のかなしみ、他人のきずつき体験。他人の摂食障害、他人の発達障害、のぞき見、出歯亀(出っ歯の亀次郎、池田亀次郎)。すみません言い過ぎました。

すると、「他人に興味がある」というのは「他人のなにかエクストリームな状態に興味があり、他人がなにかものすごい困ったような体験に興味がある」=「自分でそれを体験するのは御免被る」みたいな、映画をみてわくわくどきどきスリルとサスペンスの代理体験、みたいなものを日記に求めているのか?

もしそうなら映画をみたり、SNSにおけるなにか他人様の行状がわかるものを読んだりして、適度に楽しめばいいですよねえ。
しかし日記には何かそれらとは違うものが含まれているような気もするのです、これは直感です。なんの根拠もヒントもなくそう思いました。
これからの文章でなんらかの方法でそれが見つかるといいのですが。

最初に思ったのは「他人への興味は結局他人なんか大嫌いと他人大好きの中間にある」というものでした。私は「他人」についてずっと長いこと考えていまして、つい先ごろも図書館における高齢男性の「救い」というものと孤独対策政策についてのnote記事を読んでおりました。リンクは貼ると仰々しいので貼りませんけども。

人間の孤独なんてものはどこにでもあるわけですが、とくに「高齢」の「男性」が孤独に陥りやすいとはよく言われる話です。しかし、この現象に付随して、あちこちにあらわれる「迷惑じじい」もまた高齢男性に特有の現象といえます。ギャラリー・ストーカー。小売りの店で店員(主に女性)になんらかの難癖をつけたり、無駄話を話しかけはじめて長時間居座る人。バスで赤ちゃん連れた女性に怒鳴る高齢男性。迷惑だらけですね。これはもちろん孤独の裏返しであって、もし孤独をこじらせていないならば、もっと人間を信じる友好的な態度を他人に対してとることができるでしょうから。

これは私もまたひとりの高齢男性であること(54歳でもうすぐ55歳ならば、あきらかなる高齢男性資格を有してるといえるでしょう)からして、自戒をこめて書いています。なんとか、せめて自分がそうならないようにしたい、努力したい。

さて、その迷惑じじいの抱える孤独でありますが、なぜ迷惑をかける方法でまで他人に対して接近するのかといえば、結論として当たり前のこと、他人と関わりたいという願い(欲望)があって、それが歪んだ形で表出されている、という仮説がおそらくはだいたい当たりでしょう。他に思いつきません。背理法でいえば、「他人と友好的な関係をもっているのであれば、歪んだ表出を形にした迷惑接近をする必要がない」からです。

ここで、さかのぼってみれば、「人間は誰しもが皆、他人と友好的に関係をもちたいというベーシックな希望や願いや欲望をもっている」という、改めて書くまでもない前提があることになります。たぶんそれもそうだと思います。わざわざ書くまでもない・・・・・・・・・

わざわざ書くまでもないことが、そこにあるのに、それが満たされていない人間がいると、その人間は孤独という毒を自らのうちに抱えてしまうことになりますねえ。

ここまでで分かったことは、「他人への興味は、なにも他人のエクストリームな体験だけではなく、他人がごろっとそこにいるだけの状態であっても、近くにいたいとか近くに行きたいという他人への欲望を喚起する種になりうる」ということです。だったら、日記もまた、内容如何ではなく、そこに他人が生きてなにかをしているという状態があるだけで、読まれるべきものとなり得るでしょう。

これはあくまで「読む方」からの視点ですけどね。

作品としての、その日記が、「すごく面白い」のかとか、エッセイとしても読めるとか、文学になっているとか、真にこころが揺さぶられるとか、いろいろ評価軸はあるとは思うんですが、それはまた別の視点なのでここでは触れないことにします。

いま、私が考えていることが「他人がそこにいる」ことと「自分が他人を必要としてる」ことについてなので、それで日記もその関係性の媒質となりうるってことです。SNSとかとは違うのは、どんな長文でもいいし、映画のようなドラマチックが無くてもいいし、ただそこにあるだけでもいい、って今の私がそう思っているということです。

ちょっとわかったような分からないような結論ですが、ともあれそう思うところであります。折角なので、今まで読んだいろいろな日記の中で、実におもしろくて印象に残るものを挙げておきます。
高橋源一郎『追憶の一九八九年』
です。単行本初版一九九〇年。

当時は私はたぶん浪人から大学1年生というところです。なんでも雑食で、なんでも読みたくて、他人との間に壁を感じるとかとはまだ無縁で、友人たくさんいるような気がしていて、浪人中も高校の友人たちとさかんに会って話して、大学入ってすぐサークルはいって、とかそんな割と楽しい楽しい時代だったような気がしますが、それは主観がそう思っているだけで、たぶん普通の若者だったんだと思うのですが、その東京の杉並区の一角にいた私が読んでいる練馬区に住む小説家の高橋の、その毎週の競馬予想と、妻と、友人たちと、毎日何かがまるでお祭りのような、おりしも1989年、バブルなんとかであります、東京の浮かれ騒ぎ、本当に私も自分が何をしていたのか、覚えているのは断片ばかりですが、そういう時代と場所の刻印が、深くくろぐろと刻まれている日記です。
その後、こんなに仲睦まじい夫婦だった高橋が離婚と聞いてしんそこびっくりしたものですが、それは関係ない話なのでやめます。

今回は以上です。お読みいただきありがとうございました。

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