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無職の身ゆえ仕事論を読むと真剣に文句が言いたくなる(きらわれもの)

考えものですが、無職である(いま)現在なので、仕事については真剣にすぐ怒ったり沈んだり忙しいものです。無職とは「あせり」であります。もしあせりがないならば、最早無職なのか有職なのか、そんなことも気にしないわけですから何も言う必要がありません。

読み始めた本があまりにもリアルな無職の気分を言い当てていたので、これは、それについて書くしかないなと思った次第です。それをこの2025年の1月の、今年のはじめてのnote投稿にしたいと思います。

本は、・『21世紀の道徳』ベンジャミン・クリッツァー:晶文社

クリッツァー氏は「デビット・ライス」氏の名義でnoteでも書いているし、ブログ「道徳的動物日記」でもおなじみの有名な方ですよね。私はブログのほうの読者だったのですが(ノージックとか功利主義とかリバタリアンとかについて興味があった)、著作もあるとわかり、まずは『21世紀の道徳』を読んでみたくなったのでした。まえがきを読み、そして一気にとんで第4部幸福論、その中の「仕事」の章へといきました。
もちろん、仕事について、私は「できることならしないでおきたいのですが」と、かのバートルビーのように、思っています。思っていますが、100%そのままでいいとも思っていません。こういう無職の気分はなかなか複雑なので、文章ですっきり書くのは難しいなあと私は思っていました。何度か日記で試みたこともありますが、うまくいきません。しかしこの本で、それが言い当てられてしまいました。そういうのって、自分の恥部が公刊された本に書いてある!とばかりに、恥ずかしい気分ですよね。

ちょっと引用します。

”自分がフリーターやニートを経験していたときのことを振り返ると、きちんとした定職を持たないことのつらさとは、自由に使える収入の少なさや将来への展望を抱くことができないことによる不安だけではなく、他人に対して、「自分はこういうことをしている」と胸を張って言えることがないというところからも生じていた。”(P142)

そうなんですよ。よくおわかりで。私も別にもう将来とかどうでもいいやとばかりに半分思っていますし、そのことをもう後悔してもしょうがないくらいに思っていますが、問題は他人がそこにいて、他人に対して、何も言われていなくても胸を張って堂々と接することができないということなのです。ここを完全にクリアできるような無職人は少ないと思います。もし、自分で、自分の在り方が、他の人たちとは違うけれど、自分なりの信念に基づいた確信の上を歩いていると、そのくらいのものを心のうちに築いているのならば、他人に対しても、どう思われても構わないくらいの自負をもって接することができるのですが、そこまでのものは無いです。

だから、そこから転じて、私は社会のはみだしものだという自覚でいくくらいしかないわけですよね。

クリッツァー氏は「仕事を通じてアイデンティティを形成する」ことについて、ラース・スヴェンセン『働くことの哲学』を引きながら語っています。いちいち、納得させられてしまうことばかりです。とくに、他人とのやりとり、どんな小さいことでも、話をする、仕事の内容を確認する、分担をする、報告をする、共有する、全体の展望を考えるなど、他人とともになにかを行うこと(それがたまたま仕事の中でも繰り広げられる)が、自分のアイデンティティ形成となっていくこと、は確かに事実そうだと思います。なぜならば、他人がいるのが社会だという事実があるとしても、家を出て他人と強制的にまじわることをしない限りは、他人と接することなどはないからです。

別に「他人と接しなくてはいけない」と言っているのではありません。ここでの主題は「仕事によって、他人と接する機会がうまれ、それによって自らというものがはじめて立ち上がっていく」ということがある、ということです。人間の義務がそこにあるなどとは言っていません。人間の、現在の社会でのあり方は、おおよそ多数の人がそうしているのだ、という、ただの現象です。

したがって、(もうこのあたりは私の考えです)いろいろ問題点はあるだろうけれども、無職よりは家を出てなにか他人に接するほうが、たぶんこの社会で生き延びていくための利があるようだよ、くらいのことは言えると思います。もちろん、先に書いたように、自分自身について確たる選択があって、それをするということもありですし、家の中でそれをしてもまったく問題ないわけです。ただ、家の中には他人がいない(ここではひきこもり人の家族みたいなケースは捨象します)わけですから、他人と交わるゆえの利を得ることはできないですね。

私はアナキストを自認するようにしていて、「人間はしたいことを自分だけの決定で行うものであり、決して他人から強制されることを許してはならない」と考えています。助け合いは美しいですが、あくまで助けるほうが「助けたい」と考えて行動するからいいのであって、助ける助けないは助けるほうの選択です。助けるべきだ、というのは、全く別の議論になります。
さてアナキストとして考えるときにすぐ考えあぐねるのが、学校の存在です。なぜ、我々は学校にいかないといけないのか?強制的に、一つの場所に集められ、同じカリキュラムを聞いて、おまけにいじめなどの暴力が容易に発生する閉鎖空間、いいところがひとつもない、と思っていました(ついこのあいだ「小学校 それは小さな社会」という映画を観にいきましたが、大変複雑な気分になりました)。

しかし、まさにその映画の副題にある「小さな社会」ですが、小学校とは、こどもがはじめて体験する「社会」であるのは、事実ですね。そこには他人がいます。家族も他人なんですけど、現在の常識では他人のうちに入れないようなのでやめておきます。それで、学校で他人がいる場所で、他人がいるような生活はどういう生活になるのか、それを経験する、経験してサバイブすることを学ぶ、他人がどうしてすぐ怒るのか、話かけてくるのか、協力しようとしないのか、掃除をさぼるのか、揶揄するのか、とにかく他人は嫌なものです。そんなに他人にいやがらせばかりしている奴はきらわれものです。きらわれものは排除されるのか?それとも、そいつが暴君になるのか?あるいはきらわれものの一団が結成されるのか?人間関係はどんなこどもに於いても戦場であります。小さいものでも社会です。そして大きくなっても社会です。社会は同じで、同じように、アホもバカもきらわれものも、純朴も素朴も天然も、狡猾も策謀も、なんでもあります。一そろいあります。そういう他人の跋扈する社会、そんなのは大嫌いで、経験したくないとなれば家にいますけど、

でも社会そのものがそういうものだという事実は過去も現在も同じなので、未来でもそうでしょう、我々は人間として生まれたので社会以外のところでは生きていけないのです(ひきこもり人の家族は社会でなんらかの役割をすることで家に資金を運んでくるのでそれでひきこもり人は生きていけます)。

学校のあとに「仕事をする人の多数の集合で形成される社会」があったのです。それはだいたいにおいて「引退」するまでつづきます。なんというひどい世の中でしょうか。それしかないのか。それしかないのでしょうね。

おそらくはそういうことに、そういう怨嗟の声に、そういうアホらしいなあという本音に答える、応答する、そして気持ちがいい、のがグレーバー『ブルシット・ジョブ』などの一連の著作なのかもしれません。私はグレーバーの主張は好きですが、クリッツァ―氏はグレーバーの著作を批判しています。私がよみとったところの主意は、「そうやって現状の社会を批判しても、結局それによってなにもしない人間がどうやって生きていけるのかの答えはない」というものです。
まあ確かにそうですよね(私はグレーバーの著作を貫く価値は「この世界は別のありかたもありえるし、かつてあったし、そのことを諦めないでほしい」という主張だと思いますが、話が別になるのでやめます)。

すごく乱暴にまとめてしまうと「仕事をするのは多分現在の社会ではマシなほうの選択だし、それによって得られるものもある、我々はそうやって今のところ”人間”になることができている」という感じです。なにしろ他人がいますからね。

ほんとうに唐突に引用しますけど、サザエbotというネット上の人格がいまして、いた、といいますか、ある時期には有名でした。著作も出ました。格言のようなものがたくさん掲載されていました。今でも私が覚えているのがありまして、正確な文言は忘れてしまいましたが、
”変化するきっかけは他人からしか得られなかった”
というものです。
すごく簡単に言えば、自分の中にはもともとは何もない、だから他人から何かを得ることでしか、自分は変わることができない、ということですね。

だからおそらくひきこもり人が家にいて、他人と接していないということがあったとしても、その人にはツールがあると思うんですよ。本、ネット、ラジオ。他人の言葉や声も他人ですよね。まあリアル他人ではないので、多少はバッファがありますが。

そういうことを考えています。本を読むのはとてもいい。そのことによってしか、考えもはじまりませんし、きっかけもないですからね。

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