EDO -1「ぴくせるらぼ」を終えて
先日の22日にEDO1のメンバーに来綾いただき「ぴくせるらぼ」を開催していただきました。
参加人数は定員には満たなかったものの、とても楽しく意味のある企画となったと思います。
今回のぴくせるらぼには蚕都Grantsと関わりのある当事者メンバーが参加しました。もともとNFTをつくって販売したことがあるメンバーもいれば、普段まったく絵を描くことがない参加者もいましたが、ピクセルアートは全員初挑戦となりました。
お越しいただいた川谷さんとMiCHIさんは会の中盤で、「休んでくださいと言ったのに、すげえもくもくとやってる。子どもたちなら今ごろ(スタッフの)肩に乗って遊んでますよ」と言っておられました。どうやら「黙々と描く」というのは珍しかったようで、ぼくたちなりの「回」になったようで良かったなと思っています。
メンバーの感想
①参加するつもりはなかったけどやってみると楽しめた
②パズル感覚で描けるので、絵が上手ではないがそこそこ描くことができて楽しめた
③ピクセルをどう配置すれば絵に見えるのか試行錯誤するのが難しいけど楽しかった
④飽きっぽく集中が続かないので(ADHD特性かもしれない)あまりに自由に描ける余白がありすぎると雑多に詰め込もうとして絵にならず完成させることができない。あえて24×24で制約を設けることで、自分の描いた絵を眺めることができた
⑤通信教育の教材としても使えるのではないかと思った
⑥「イカ対決」(イカをテーマ共有して見せ合いっこ)をして、他の参加者の絵をみて自分との違いを見ることができた。つくることが楽しいというベースがあったので劣等感を感じなかった
⑦学校の美術の授業より楽しかった
⑧ピクセルアートを自分の普段の作品に取り込みたいち思っていたので、その方法を詳細まで教えてくださった。
⑨ぴくせるらぼが多くの人へ届くことを願っています。
久馬の個人的な感想
ぼくは保育園のころから「劣等感」を抱いて生きてました。みんなできて自分だけできない。なぜか自分だけ叱られている。と感じていました。高校を卒業するまでずっと周囲の人たちが楽しいと思っていることを共有できないことが多かったし、「しかたない」と思って諦めていました。それは「正しい楽しみかた」があると思っていたからなのかもしれません。周囲の人たち(とくに威厳のある人たち)が言う「うまい」とか「じょうず」「すごい」という発言にはかなり敏感で、懸命に真似ようとしたけどできなかったのです。授業の「評価」はあまり気にしたことはなかったけど、先生や友人たちが共有している「うまい」「じょうず」「正解」があったかもしれなくてぼくはそこにハマれなかったのでしょう。(知恵がついてくると、その「うまい」の尺度には個人差やばらつきがあることがわかってきてスルーする術も身につきましたが、当時のぼくは今以上に言葉の意味に厳格なところがあったのでいちいちつっかかってました)学校では図工、音楽(理論は無理)、理科(実験のみ)、農業機械(仕組みとか)、課題研究(アイガモ農法とか)以外は全くできなかったし、休憩時間にも居場所がなくて学校や集団行動が苦手でした。カモフラージュして過ごしていたから毎日疲れてて楽しく過ごせる日の方が少なかった。
学校の勉強も遊びの時間も、当時はなにかにつけて「勝敗」があって、大抵「負ける側」だったのでとにかくつまらなかったなと記憶しています。勝負や競争が悪いとは思わないけど、自分がフィールドを自覚していないところで何を目指しているのかもよくわからないまま戦って「負け」たことだけは伝えられる。そんなの楽しいわけないでしょう。でもきっとたぶん先生は説いてくれていたのでしょう。でもよくわかっていなかった。か、聞いていなかったのでしょう。先生ごめんなさい。
余談が過ぎました。失礼しました。
今の学校の仕組みや目的がどうなっているのかわかりませんが、当時のぼくが「ぴくせるらぼ」に出会っていたら、カモフラージュや気負いせずに自分と他者を「くらべる」ことができていたかもしれません。ぼくは生身の他者という現実を通じなければ、自分という人を仮定することもできないので主体性が育たないではないかと思っています。精神保健福祉の世界にいると精神のケアや回復にその個人の「主体性」がどれほど重要か痛感することがたびたびあります。
なので、その時々の「自分を知る」という機会はできるだけ逃さない方が良いと思っています。その機会を大人になってから得たいと思っても難しいし、その機会損失が「社会的障壁」によって生じているのであれば、やっぱりそれはよろしくないと思います。
となると、障壁を巧みに回避して成長の機会を生み出す可能性が大いにひめられた「ぴくせるらぼ」はとてもとても価値のある活動だと思いました。
(京都駅行きの道中で川谷さんMiCHIさんと話していたのですが)今後、多様性を受容できる小さな共同体と、その共同体の有機的な繋がりも重要になってくるでしょう。蚕都Grantsは障害者という属性やおかいこさんを、EDO1は「ぴくせるらぼ」や「アート活動」を媒介として、時折連携する組織が自立して分散する社会が健全なのではないかと改めて考えることができました。
EDO1のみなさんにまた会いたいなと思います。
蚕都Grantsを初めてから、また会いたいと思える人がすごく増えて、これはなんだか幸せなんじゃないかと思いはじめた今日この頃です。
拙いnoteを最後までお読みいただきありがとうございました!
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